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竜殺しの英雄  作者: 神凪 浩
第一章 偽りの黎明
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第三話 仮初めの解決

 捜査本部には、重苦しい沈黙が漂っていた。

 カイルがガレスの日記から得た情報と、リィナが老婆から聞いた不気味な噂は、点と点として存在するだけで、まだ一つの線を結んではいなかった。

 だが、その二つの情報が同じ「闇」を指し示していることだけは、誰の目にも明らかだった。


「嘘…消えた村…竜の呪い…」


 カイルは壁の相関図に新たなキーワードを書き加えながら、静かに呟いた。

「これらは全て、ガレス様の死の背景にある。単なる殺人事件ではない。我々が追っているのは、もっと大きな、名前のない『敵』だ」

「しかし!」

 ゲルハルト隊長が、苛立ちを隠さずに口を挟んだ。

「そんな老婆の戯言や、故人の日記の曖昧な記述を根拠に、これ以上捜査を拡大させるというのか? 我々が追うべきは、ガレス様を手にかけた、一人の犯人のはずだ!」

「その一人の犯人が見つからないから、こうして頭を悩ませているのだろう」

 カイルは冷ややかに言い返した。

「君の言う『常識的』な捜査では、あの完璧な密室の謎すら解けていない。ならば、視点を変えるしかない」

「何だと!」

「もういい、二人とも」 執政官アルベリヒが、疲れたようにその場を収めた。

「だが、ゲルハルト隊長の言うことにも一理ある。領民の不安は、日増しに高まっている。これ以上、犯人不明の状態が続けば、暴動が起きないとも限らん。カイル捜査官、何か具体的な進展はあるのかね?」

 アルベリヒの言葉には、領地の安定を預かる者としての、切実な圧力が込められていた。

「もう少し時間をください」

 カイルはそう言うと、一人、再び事件現場であるガレスの執務室へと向かった。

 全ての始まりの場所、あの閉ざされた空間に、答えはあるはずだった。


 ◇


 カイルは、ガレスの執務室で一人、再び検証作業に没頭していた。

 彼は城塞の書庫から古い設計図と、『ストーンハート城塞建築史』という分厚い古文書を運び込み、床に広げていた。

 何時間も、彼は羊皮紙と睨めっこを続けた。

 やがて、彼は古文書の中に、気になる記述を発見した。


『…城塞の心臓部には、万一の裏切りに備え、古代の民の知恵を用いし防衛術式を施す。星々の正しい配置によりて、その空間はあらゆる侵入を拒絶する聖域と化すであろう…』


「古代の術式…星々の正しい配置…?」


 カイルは、執務室の隅に置かれた古びた天球儀に目をやった。

 ガレスが普段から触れることのなかった、単なる装飾品。

 だが、その天球儀に刻まれた紋様は、古文書に記された「星々の正しい配置」を示す図形に酷似していた。


「天球儀が起動装置…」


 彼は天球儀に近づき、その構造を丹念に調べ始めた。

 ドワーフ製らしい、寸分の狂いもない精巧な技術の集合体。

 彼は、特定の星座の部分に、ごく小さな隙間があることを発見した。だが、謎は解けるどころか、さらに深まった。この術式は、外部からの侵入を防ぐためのものだ。なぜ、それが内側から鍵がかかった密室の謎に関係するのか。


(ガレス自身が、死の間際に起動させたとでも言うのか? 何のために? 犯人を閉じ込めるためか? いや、それなら犯人は室内に残っているはずだ。では、なぜ…)


 カイルは、出口の見えない迷宮の中で、深い疲労と焦燥感に襲われていた。


 ◇


 捜査が行き詰まり、領内の不安が頂点に達しようとしていた頃、アルベリヒが再びカイルを呼び出した。


「もう限界だ」執政官は、憔悴しきった顔で言った。

「毎日のように、領民から『犯人はまだ見つからないのか』という陳情が殺到している。このままでは、領地の統制が取れなくなる。何か、何か形だけでもいい。成果を見せなければ、暴動が起きるぞ」


 アルベリヒの言葉を受け、カイルは一つの決断を下した。それは、捜査官として、そして彼自身の信条からすれば、決して本意ではない、苦渋の選択だった。


(…今は、これしかないのか)


 彼は、最も動機が明確で、心理的に脆いであろう人物の顔を思い浮かべた。一か八かの賭け。だが、この膠着した状況を動かすには、劇薬が必要だった。


「リィナ。イリスの身の回りの世話をしていたメイドたちと、もう一度話をしてきてくれ。どんな些細なことでもいい。イリスとガレス様の関係について、何か気になることがなかったか、探ってほしい」

「分かりました。でも、どうして今…」

「いいから頼む」

 カイルはリィナにそう指示すると、自らは庭師たちの元へ向かった。嵐の夜の記憶を、もう一度、詳細に聞き出すために。


 数時間後、捜査本部に戻ったカイルの元に、リィナが青い顔で駆け込んできた。

「カイルさん…大変です。メイドの一人が、ようやく口を開いてくれました。イリスさんの体には、時折、痣があったと…。ガレス様は、酒に酔うと、イリスさんに手を上げることもあった、と…」

「…そうか」

 カイルは、庭師から得た証言と、リィナの報告を頭の中で組み合わせた。

「庭師も思い出したそうだ。嵐の後、庭の植え込みの土が不自然に掘り返されているのを見たと。その時は気にも留めなかったそうだが…」

 ピースは揃った。

 だが、それは真実の全てではない。

 カイルは、これをどう使うべきか、一瞬逡巡した。

 しかし、アルベリヒの切迫した顔が脳裏をよぎる。


「イリスを、尋問室へ」


 ◇


 保護室に連れてこられたイリスは、以前よりもさらにやつれ、その瞳からは光が消え失せていた。

 カイルは彼女の正面に座り、ただ静かに、しかし鋭く彼女を見つめた。

 リィナは、カイルの背後に、緊張した面持ちで佇んでいる。

 重い沈黙が、部屋にのしかかる。


「イリス」

 カイルは、静かに口火を切った。

「君の証言には、嘘がある」

 イリスの肩が、びくりと震えた。

「…嘘など、ついておりません」

「では聞こう。君は事件の夜、ガレス様の夕食を運んだ後、すぐに自室に戻ったと言ったな。だが、君の部屋の隣室のメイドは、夜更けまで君が部屋に戻るのを見ていないと証言している。君はどこで何をしていた?」

「そ、それは…気分が悪くて、中庭を散歩していました…」

 イリスの答えは、カイルの予想通りだった。

「嘘だ。あの夜は、窓ガラスがガタガタと音を立てるほどの嵐だった。そんな中を散歩する人間がいるか? 今朝、庭師に確認した。嵐の後、庭園の薔薇の植え込みの土が、不自然に掘り返されていたそうだ。君はそこに何かを隠したのではないか?」

 カイルは、そこで言葉を切り、テーブルの上に一本のレターオープナーを置いた。

 銀細工の柄がついた、短剣のようにも見える豪奢な品だ。

 先端には、微かに乾いた血痕のようなものが付着している。

 これは、庭師の証言を元に、先ほど捜索隊に探させて見つけさせたものだった。

「これは、ガレス様の机の上にあったものだ。君が夕食を運んだ際、これを盗み、犯行に及び、そして庭に隠した。違うか?」

「…!」

 イリスは、息を呑み、血の気の引いた顔でレターオープナーとカイルの顔を交互に見た。

 彼女の心の壁に、最初の亀裂が入ったのを、カイルは見逃さなかった。

 彼は、一気にたたみかけるのではなく、あえて少しだけ声のトーンを和らげた。

「イリス、我々は全てを知っているわけではない。君を一方的に責めるつもりもない。リィナから聞いたよ」

 彼は、背後にいるリィナに視線を送った。

「君が、ガレス様に長年、苦しめられてきたことを。その体には、今も無数の痣が残っているはずだ。我々は、君の侍女だった他のメイドたちからも、その証言を得ている」

 その言葉は、イリスの最後の砦を打ち砕いた。

 彼女は、自分だけが抱え込んできたと思っていた秘密を、他人が知っていたという事実に、そしてカイルの言葉に含まれた、偽りかもしれないが、わずかな同情の色に、ついに堪えきれなくなった。

 イリスは顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。

 それは、長年溜め込んできた悲しみと、恐怖と、そして愛憎が、一気に噴出したかのような、激しい泣き声に変わった。

「私が…私がやりました!」

 彼女は泣きじゃくりながら、叫んだ。

「あの人は、悪魔です!いいえ…!私を歪ませたのは、あの人の優しさでした!あの日、私の父が遺したささやかな形見のブローチを、私の目の前で踏み潰したのです!『没落貴族の娘が、いつまでもこんな過去に縛られるな!前を向いて生きろ!』と叫びながら…!あの夜、酒に酔ったあの方が、また同じように私を諭そうと手をあげようとしたので…私は、衝動的に机の上のレターオープナーを掴んで…!」

「そして、ガレス様を刺した後、どうした?」

 カイルが静かに、しかし鋭く問う。

「…怖くて、ただただ怖くて、部屋を飛び出しました。廊下を夢中で走って、庭に逃げ込んで…茂みの中に隠れて、ずっと震えていました…」

 カイルは、彼女の言葉を冷静に分析した。

 犯行の動機と実行については、筋が通っている。

 だが、最大の謎が残る。

「イリス、君が部屋を飛び出した後、執務室の扉は誰が施錠した? 部屋は内側から鍵が掛けられ、完璧な密室だったんだ」

 その問いに、イリスは泣きじゃくる顔を上げ、心底不思議そうな、怯えた表情でカイルを見た。

「密室…? か、鍵…? 私は…知りません…。ただ、扉を開けて、逃げただけです。何もしていません…!本当です!」

 彼女の瞳には、嘘をついている様子はなかった。

 彼女は、本当に「密室」については何も知らないのだ。


(やはり、そうか…)


 カイルは、心の中で確信した。彼女は犯人だが、この事件の全ての絵図を描いた「真犯人」ではない。

 彼女の背後で、この状況を利用し、ガレスを確実に殺害し、そして完璧な密室を作り上げた者がいる。


 だが、その疑念を、彼は口には出さなかった。

 アルベリヒの顔が、脳裏をよぎる。領地には、今、「犯人」という名の鎮静剤が必要なのだ。


 ◇


 イリス・クレールの自白により、「ガレス殺害」の犯人は特定された。

 領主館には、安堵の空気が流れた。

 ゲルハルト隊長も「やはりあの女だったか」と、どこか納得したように呟き、捜査の終結を宣言した。


 だが、その夜。誰もいなくなった捜査本部で、カイルは一人、壁の相関図を睨んでいた。

 彼は、イリスの名前に「犯人」と書き加えた後、その横に、小さくクエスチョンマークを書き加えた。彼の本当の捜査は、まだ始まったばかりだった。

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