前日譚 軍神ヴァルガス
ヴァルガスが鍛えた鉄には、魂が宿ると言われた。
彼の故郷、東の山岳地帯にある「鉄の村」は、彼の鍛冶の腕前によって富み栄え、ヴァルガスは村の誇りだった。
妻のサラは、炉の火を恐れず作業に没頭する夫の背中を、優しい眼差しで見つめていた。
幼い娘のニーナは、毎日、熱気を避けて工房の外で遊びながら、槌が鉄を叩く規則的な音を子守歌のように聞いて育った。
ヴァルガスにとって、その音は人生そのものだった。
故郷の豊かな鉱山と、愛する家族に囲まれた日々。
それが、彼の全てだった。
ある冬の夜。ヴァルガスは妻と娘を寝かせ、夜通し新しい戦斧の仕上げ作業に没頭していた。
故郷を脅かす魔獣の群れが最近勢力を増しており、自警団の武器を強化するためだった。
夜風が窓から吹き込み、冷えた空気が火照った肌を冷ます。
彼は、工房の棚に飾られた、魔獣を狩り終えたら家族で街へ遊びに行こうと約束して作った、娘の小さな木彫りの人形をそっと撫でた。
その晩、故郷を揺るがす地響きが轟いた。
ヴァルガスが慌てて工房を出ると、村の空は黒煙に覆われ、魔獣の群れが火の粉を撒き散らしながら暴れ回っていた。
彼が鍛えた武器を手にした村人たちは、必死に応戦する。
ヴァルガスも戦斧を手に、家族のもとへ走った。
「サラ!ニーナ!」
だが、彼がたどり着いた家は、魔獣の放った炎によって既に瓦礫と化していた。
瓦礫の中から、彼は妻と娘の、もはや人の形を留めていない小さな炭の塊を掘り出した。
絶望が、彼の心を支配した。
怒りと悲しみのあまり、喉が張り裂けるほど叫んだ。
だが、その声は黒煙と魔獣の咆哮にかき消され、誰にも届かなかった。
その日の村の惨状が、王都に伝わることはなかった。
いや、伝えられることはなかった。
数日後、王都からやって来た一人の男、賢者アルドゥスが、瓦礫の山に呆然と立ち尽くすヴァルガスに語りかけた。
「君の憎しみは、王都の貴族たちには理解できん。彼らが守りたいのは、自分たちの保身だけだからだ」
「貴様、何者だ…」
「私は、君と同じ悲しみを知る者だ。そして、その悲しみを、力に変える術を知っている。君が本当に復讐を望むなら、その憎しみを私に預けなさい。私は、君が愛した者たちを殺した『世界そのもの』に復讐する道を、君に示してやろう」
アルドゥスの言葉は、ヴァルガスの心に深く突き刺さった。
「…どうすればいい」
「簡単だ。私と手を組むのだ。力こそがこの世界の全てだと、王家と愚かな貴族どもに思い知らせてやろう。そうすれば、君が愛した者たちを殺した憎しみは、消え去るだろう」
アルドゥスは、ヴァルガスに、この世界の地脈の淀みが、いずれ世界を滅ぼすという真実を語った。
そして、その淀みを正すためには、世界の心臓を支配し、新たな秩序を創造しなければならない、と。
ヴァルガスは、復讐の念に駆られ、アルドゥスの計画に加担することを誓った。
彼は、自分の憎しみを、アルドゥスの言う『秩序』に結びつけることで、心の均衡を保とうとした。
やがて、彼はアルドゥスによって「軍神」と祭り上げられ、魔獣討伐の英雄として名を馳せる。
しかし、その内面は、家族を失った悲しみと、復讐の炎に燃え続けていた。
数年後、彼は「竜」という新たな敵の存在を知る。
それは、彼が妻と娘を失った憎しみと悲しみを、最も純粋な形で向けられる存在だった。
彼は、竜を討伐することで、心の安寧を得ようとしたが、それは結局、ヴァルガスの憎しみをさらに深めることになった。
彼の瞳は、もはや人間のそれではなく、復讐の炎を宿す、歪んだ狂気に満ちていた。
彼は知らなかった。
アルドゥスの言葉は、彼を操るための嘘に過ぎなかったのだ。
そして、彼の最も忠実な部下たちは、ヴァルガスを信じて、家族を失った悲しみを共有する仲間たちだった。
彼らがヴァルガスに抱く忠誠心は、復讐心という熱病によって、やがて狂気へと変わっていく。
それは、彼が愛した者たちの死という悲劇が、新たな悲劇を生み出す連鎖の始まりだった。




