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新生の黎明

 神を名乗った賢者アルドゥスが、自らが求めた根源の力によって消滅してから、三年近い歳月が流れた。

 大陸を覆っていた「世界の病」は、もはや遠い記憶となりつつあった。

 アルドゥスの狂気が作り出した、あの美しくも不気味な楽園は、跡形もなく消え去った。

 彼の消滅と共に、ガラス細工のようだった木々は、一斉に光の粒子となって砕け散り、その光の中から、見たこともないような色鮮やかな花々や、生命力に満ち溢れた若木が一斉に芽吹いた。

 銀色に流れていた川は、清らかな水流を取り戻し、そのほとりでは、蛙たちが生命を謳歌する大合唱を響かせている。

 沈黙に支配されていた森には、鳥たちのさえずりと、虫たちの羽音が戻ってきた。

 南の地の人々は、そのあまりに自然で、懐かしい「音」に、涙を流して喜んだという。

 その再生の息吹は、大陸全土に及んでいた。

 かつてヴァルガスの軍靴に踏みしだかれ、鍛冶場の煤煙(ばいえん)で灰色に染まっていた東の山々にも、変化は訪れていた。

 汚染された大地を覆っていた黒いスラグの隙間から、紫や黄色の、たくましい高山植物が顔を覗かせ、岩肌を彩っている。

 鉄臭い匂いしかしなかった谷間を、雪解け水と花の蜜が混じり合った、甘い風が吹き抜けるようになった。

 西方の三国同盟の農地では、何年も人々を苦しめた原因不明の作物の奇病が嘘のように消え、大地は、まるでこれまでの不調を取り戻すかのように、倍以上の豊かな実りを人々に与えた。

 大陸の至る所で、人々は、大地そのものが、深く、安らかな呼吸を取り戻したのを感じていた。

 アルドゥスの消滅と共に、暴走していた『世界の心臓』は、リィナの祈りに応えるかのように、穏やかで、温かい脈動を取り戻した。

 その清浄な生命力は、解放された竜が再び守護者として舞うことで正常化した大気の循環に乗り、大陸の隅々まで、分け隔てなく降り注いだのだ。

 枯れた大地は黄金の穀物を実らせ、川には清らかな水が満ち、魚たちの群れが戻ってきた。

 偽りの英雄たちがもたらした長い冬は、終わりを告げたのだ。


 そして、かつて王都を半封鎖状態にまで追い込んだ、原因不明の悪疫「灰涜病(かいとくびょう)」もまた、その猛威を完全に収めていた。

 後の歴史家たちの研究によれば、あの病は竜の封印によって乱れた地脈の淀みが、最も人口の密集する王都で顕在化した、いわば「世界の病」の最初の兆候であったという。

 『世界の心臓』が穏やかな鼓動を取り戻した今、人々を絶望させた灰色の病魔は、まるで嘘であったかのように霧散し、歴史書の一節に残るのみとなっていた。

 エレジア王国の歴史書からは、英雄たちの偽りの伝説が消えた。

 代わりに記されたのは、過ちを犯しながらも、その罪を認め、未来のために戦った者たちの、真実の物語だった。

 子供たちは、学校で、完璧な英雄ではなく、不完全で、だからこそ尊い人間たちの軌跡を学んでいた。


 ◇


 エレジア王国の王都。

 かつて玉座が置かれていた広間は、今や「大陸円卓評議会」の議場となっていた。

 中央に置かれた巨大な円卓には、王家の代表だけでなく、深い森から来たエルフの長老フィオラ、東の鉄竜山脈から数百年ぶりに公の場に姿を現したドワーフの山王ボリン・アイアンハンド、内乱の脅威から立ち直った西方連合の代表、そして、アルドゥスの支配から解放された南方連合の民がその総意によって選出した、元地域共同体の指導者エララの姿もあった。

 彼女は、アルドゥスの支配下で、人々が生きる気力さえ失っていく中、最後まで抵抗を続け、食糧の分配や情報網の維持に尽力した人物であり、その揺るぎない意志と大地への深い知識が、新たな南の代表として、彼女をこの場へと導いたのだ。

「南方の有り余る食糧を、ドワーフの民が暮らす東の山岳地帯へ送るための、新たな街道の建設。これが、喫緊の課題です」

 議長の席から、宰相カイル・ヴァーミリオンが、落ち着いた声で議題を切り出した。

「最短ルートは、エルフの民が聖域とする『眠りの森』を通過するものとなります」

「それは承服できん」

 即座に、フィオラが厳しい表情で反対した。

「我が森を、人間の鉄の道具で傷つけ、切り開くことは、たとえどのような理由があろうと許容できぬ」

 フィオラの言葉に、議場がわずかに緊張する。

 その空気を破ったのは、南方の代表エララだった。

「長老様、あなた方のお気持ちは、大地と共に生きる者として、痛いほど分かります。ですが」

 彼女は、深く頭を下げ、必死に訴えかけた。

「私の故郷では、民の努力でどうにか食糧だけは、有り余るほど収穫できるようになりました。しかし、戦で多くのものが失われ、我々には作物を収穫するための鍬や鋤が、家を再建するための釘や蝶番が、圧倒的に不足しているのです」

 彼女は次に、ドワーフの山王ボリンに向き直った。

「そして東の山王の民は、素晴らしい鉄の道具を作る技術をお持ちですが、厳しい冬を前に、食糧の到着を今か今かと待っていると伺っております。この道は、どちらかが一方的に与えるためのものではありません。我々南の民が食糧を、そして山王の民が鉄と道具を。互いに生き残るために、互いの足りないものを補い合うための、命の道なのです」

 その言葉には、民の生活を背負う者としての、切実な響きがあった。

 フィオラも、ぐっと言葉に詰まる。

 カイルは、両者の意見を静かに聞いた後、円卓に広げられた地図を指し、新たな提案を行った。

「では、道を作らない、というのはどうでしょう」

「何?」

 いぶかしげな山王ボリンが問う。

「正しくは、『人間のための道を、一方的に作るのをやめる』ということです」

 カイルは、フィオラとボリン、そしてエララを順に見つめた。

「フィオラ殿、もし、森の木々を一本も切らず、大地の流れを乱さない道筋を、エルフの民が示してくださるなら? ボリン殿、その細く曲がりくねった道に、ドワーフの技で、自然と一体化するような石畳を敷き、小さな橋を架けてくださるなら? そしてエララ殿、その道を使う我々人間は、森の恵みに感謝し、決して森を汚さないという、厳格な『森の法』を受け入れるとしたら?」

 それは、誰かが一方的に作り、利用する「街道」ではなく、三つの種族が、それぞれの知恵と技術、そして敬意を持ち寄って作り上げる、新しい「共存の道」の提案だった。

 フィオラは、カイルの言葉に、ゆっくりと頷いた。

 山王ボリンは、長い髭を梳きながら、「ふむ、エルフの気難しい設計に合わせるのは骨が折れるだろうな」と、まんざらでもない表情で呟いた。

 そしてエララは、その手を強く胸に当て、深い感動と決意に満ちた表情で、カイルを真っ直ぐに見つめた。

「宰相殿。その言葉こそ、我ら南の民が待ち望んでいたものです。我らは、ただの施しではなく、対等な協力者としての道を求めていました。その道のためなら、我らの知恵も、汗も、決して惜しみはしません」

 カイルの仕事は、事件の真相を暴くことではない。

 利害の異なる者たちの間に立ち、それぞれの「正義」を尊重しながら、より良い道筋を見つけ出すことだった。

 それは、かつての戦いよりも、ずっと複雑で、終わりなき「戦い」だった。

 だが、彼にとって、これ以上にやりがいのある仕事はなかった。


 ◇


 長い評議会を終え、宰相執務室に戻ったカイルは、山と積まれた決裁書類の束に目を通していた。

 その中に、一枚の古い羊皮紙が挟まっているのに気づく。

 それは、「囚人番号七十三番、イリス・クレールの恩赦に関する請願書」だった。

 彼女は、ガレス殺害の実行犯として、また偽証によって捜査を混乱させた罪により、王都の修道院で終身の労役と思索の日々を送っていた。

 請願書は、彼女の労役態度が模範的であることを伝え、罪を深く悔いているとして、減刑を求めるものだった。

 カイルは、その書類を手に、執務室の窓から、遠いストーンハート領の方角を見つめた。

 彼の脳裏に、全ての始まりとなった、あの密室事件の光景が蘇る。

 絶望に満ちたイリスの瞳。

 そして、彼女を守るために、ガレスが死の間際に自ら作り上げた、悲しい密室。

 カイルは、机の上に置かれた羽ペンを手に取ると、迷うことなく、請願書の空欄に、宰相としての署名を書き入れた。

 そして、こう付け加えた。

「イリス・クレールを、全ての罪状から完全に赦免する。彼女もまた、偽りの英雄たちが生み出した、一人の犠牲者である。王国は、彼女にささやかな年金と、西方の穏やかな土地を与えるものとする。彼女が、その魂の安らぎを得られんことを」

 カイルは、ペンを置くと、静かに呟いた。

「法は、人を裁くためだけにあるのではない。人を、再び歩き出させるためにこそ、あるべきだ。…ガレス、あなたが命を懸けて守ろうとした未来は、こういうものだったんだろう?」


 ◇


 その頃、リィナは、かつて三国同盟の中心都市であった、港湾都市リューベックの波止場に立っていた。

 宰相特使として、再建された西側連合との友好条約の締結式を終えた後の、束の間の休息だった。

 三年前、この地は、カイルが仕掛けた謀略によって、血で血を洗う内乱寸前の状態に陥った。

 戦いが終わった後、彼女が最初に取り組んだのは、この西方の地に、本当の意味での平和を取り戻すことだった。

 彼女は、王国の外交官として、何ヶ月もこの地に留まり、憎しみ合う三国の指導者たちの間を、粘り強く往復し続けた。

 彼女の武器は、政治的な駆け引きでも、論理的な説得でもない。

 ただ、相手の心に寄り添い、その痛みを分かち合おうとする、誠実な姿勢だけだった。

 農家の娘として、大地の声を聞きながら育った彼女だからこそ、国と国との間に横たわる、見えない溝の深さを、誰よりも感じ取ることができたのだ。

 彼女の尽力は、一年をかけてようやく実を結んだ。

 三国は、過去の遺恨を水に流し、互いを尊重する新たな連合として、生まれ変わった。


 今、彼女の目の前の港には、エレジア王国の旗を掲げた船と、西側連合の旗を掲げた船が、隣り合って停泊し、活気よく荷物の積み下ろしを行っている。

 様々な言葉が飛び交い、人々の顔には、未来への希望が満ち溢れていた。

 リィナは、その光景の中に、新しい時代の確かな息吹を感じていた。

 数日前に王都に届いた西側連合からの定期報告の束の中に、見慣れない、震えるような筆跡の葉書が一枚だけ混じっていたのを、彼女は思い出していた。

 『ありがとう』と、ただ一言だけ。

 差出人の名はなかったが、リィナには、それが誰からの手紙かすぐに分かった。


 ◇


 その日の夜、宰相執務室で報告書を読んでいたカイルの元に、一通の手紙が届いた。

 封筒に差出人の名はない。

 だが、その無骨で、少しだけ癖のある文字は、彼がよく知る男のものだった。

『カイル、リィナ、元気にしているか。俺は今、大陸の北の果て、風の吹き荒れる港町にいる。ここでは、子供たちに剣を教えているが、どいつもこいつも俺より才能があるらしくて、すぐに追い抜かれてしまいそうだ。英雄だ、将軍だと持ち上げられていた頃より、ずっと性に合っている。先日、困っている商隊を、ちょいと助けてやった。礼をしたいと言うから、酒を一杯だけご馳走になった。その酒が、実にうまかった。誰かを守るために振るう剣も、誰かから与えられる一杯の酒も、名前も地位もない、ただの男として受け取る方が、ずっと心に染みるもんだな。お前たちが、血の滲むような努力で、平和な世界を築いてくれていることに、感謝している。俺は、その平和の中を、もう少しだけ、風の吹くままに旅してみるつもりだ。いつか、どこかで、また会おう』

 カイルは、その手紙を、何度も、何度も読み返した。

 そして、そっと目を閉じ、遠い空の下にいるであろうかつて竜殺しの英雄と呼ばれた親友の、不器用な笑顔を思い浮かべた。


 ◇


 全てが終わってから、ちょうど三年が経った、ある秋の日。

 カイルとリィナは、ストーンハート領を見下ろす、あの始まりの丘の上に立っていた。

 宰相と外交官という立場を離れ、ただのカイルとリィナとして、穏やかな時間を過ごすために。

 眼下には、黄金色に輝く小麦畑が、風にそよいでいた。

 かつての戦いの傷跡は、豊かな自然によって、優しく覆い隠されている。

「本当に、これでよかったのだろうか…」

 カイルが、ぽつりと呟いた。

 それは、三年前、リィナが彼に問いかけた言葉だった。

「俺たちは、多くのものを壊してしまった。偽りの平和も、古い秩序も。そのせいで、多くの血が流れた。俺たちが選んだ道は、本当に正しかったのかと、今でも時々考える」

「正しい道なんて、最初からなかったのかもしれません」

 リィナは、彼の言葉に、穏やかに微笑んで答えた。

「でも、私たちは、選び続けた。より良い未来があると、信じて。そして、これからも選び続けるんです。一人じゃなく、みんなで。この平和が続くかどうかは、私たち次第なんです」

 カイルは、その言葉を聞いて、長く、静かに息を吐いた。

 そして、まるで、ずっと探していた最後の答えを見つけたかのように、穏やかな顔で微笑んだ。

 彼は、リィナの手を、そっと取った。

「そうだな。君の言う通りだ」

 二人は、黙って夕暮れの空を見つめた。

 空は、カイルがかつて悪夢で見た絶望の藍色ではなく、希望に満ちた、燃えるような朱色(ヴァーミリオン)に染まっている。

 エレジアの空の下、真実の夜明けを迎えた世界に、新たな歴史が、今、静かに始まろうとしていた。

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