第二十九話 静寂の訪れ
アルドゥスの断末魔が、神殿から、そして世界から消え去った後、訪れたのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。
神と化した彼が作り変えた、歪で冒涜的な空間が、まるで長い夢から覚めるかのように、ゆっくりとその形を取り戻していく。
泥沼と化した床は、再び乳白色の輝きを持つ水晶へと戻り、捻じ曲がった柱は、古代の様式に則った荘厳な姿を取り戻す。
天井から降り注いでいた無数の光の槍は、その輝きを失い、ただの光の粒子となって、キラキラと舞いながら消えていった。
そして、三人の心を苛んでいた、あの絶望的な精神攻撃の残滓も、綺麗に霧散していた。
祭壇の中心で、暴走するように禍々しく脈打っていた『世界の心臓』は、今や、穏やかで、温かい鼓動を静かに刻んでいる。
その光は、もはや人を寄せ付けない純粋な力の奔流ではなく、春の陽だまりのような、優しく、そして生命力に満ちた輝きを放っていた。
「…終わった…のか…?」
リアムが、壁に背を預けたまま、信じられないというように呟いた。
全身を襲う激しい痛みと、骨の髄まで達したかのような疲労が、先ほどまでの死闘が現実であったことを、彼に嫌というほど思い知らせる。
彼は、もう剣を握る力さえ残っていなかった。
カイルは、リアムの無事を確認すると、すぐに祭壇の中心で膝をついているリィナの元へと駆け寄った。
「リィナ!しっかりしろ!」
彼女は、巨大な「世界の心臓」に両手を触れたまま、ただ静かに涙を流していた。
その瞳は、焦点が合っておらず、この世の全ての喜びと悲しみを見てしまったかのように、深く、澄み切っている。
「カイル…さん…」
彼女のか細い声が、静寂に響いた。
「聞こえました…。たくさんの、声が…。嬉しい、楽しい、愛おしい…。そして、悲しい、苦しい、寂しい…。全部、全部、キラキラしてて、温かくて…。ああ、私たちの世界は、こんなにも、美しいんですね…」
彼女は、世界の心そのものに触れたのだ。
そのあまりに巨大な情報の奔流に、彼女の精神は耐えきれず、涙となって感情を外に流し出すことで、かろうじて均衡を保っていた。
カイルは、何も言わず、ただそっと、彼女の震える肩に手を置いた。
彼がこれまでの人生で拒絶し続けてきた、不合理で、非論理的で、しかしどうしようもなく尊い「感情」というものの奔流を、今、目の前の少女を通して、彼は感じていた。
その時、神殿の入り口から、巨大な影が舞い降りてきた。
解放された竜だった。
彼は、三人がアルドゥスと戦っている間、外で神殿を守る異形の魔物たちを、一掃してくれていたのだ。
『…見事だ、人の子らよ』
竜の声が、三人の魂に直接響く。
その声には、賞賛と、そして深い安堵の色が滲んでいた。
『熱は、去った。世界の心臓は、再び穏やかな眠りについた。汝らが、その不完全で、しかし強い心で、世界の調和を取り戻したのだ』
「俺たちだけじゃない」
リアムが、壁に寄りかかったまま、竜を見上げて言った。
「ガレスが、そして、俺たちが英雄だと信じて戦い、死んでいった全ての者たちが、繋いでくれた未来だ」
その言葉に、竜は静かに頷いた。
竜の広大な背中に乗り、三人は神殿を後にした。
竜の背から眼下を見下ろすと、先ほどまでの死闘の舞台であったカルデラが、その姿を刻一刻と変えていた。
天を貫いていた魔力の光柱は跡形もなく消え、神殿を取り巻いていた禍々しい魔法陣も、空気に溶けるように霧散している。
湖水は、不自然なエメラルドグリーンから、空の青を映す、どこまでも深い瑠璃色へと戻りつつあった。
三人が死闘を繰り広げた神殿は、その輝きを失い、まるで春の雪解けのように、穏やかな光の粒子となって崩れ、湖へと還っていく。
ただ一点、リィナが祈りを込めて芽吹かせた若草の聖域だけが、その鮮やかな緑を失うことなく、再生の象徴のように、静かにそこに在り続けた。
三人は、過ぎ去りし悪夢の跡を、言葉もなく見つめていた。
そして、まるで過去に別れを告げるかのように、揃って前方へと視線を戻す。
竜が北へと進路を取ると、眼下に広がるアルドゥスの領地は、その姿を大きく変えつつあった。
ガラス細工のようだった木々は、その輝きを失い、代わりに力強い緑の若葉を芽吹かせている。銀色の川は、その鉱物的な光を失い、命を育む清らかな水流へと変わっていく。
感情を失っていた村人たちは、空を見上げ、あるいは自分の手を見つめ、戸惑い、驚き、そして、忘れていたはずの涙を流していた。
一人の子供が、母親を見つけて、その胸に飛び込んでいく。
アルドゥスが作り上げた歪んだ楽園は、世界の心臓が正常な鼓動を取り戻したことで、元の不完全で、しかし自然な姿へと還りつつあった。
空を覆っていた景色もまた、一変した。
地平線を不気味に染めていた魔法結界の薄暮の色が、まるで洗い流されるように消えていく。
アイギスの壁の上空を覆っていた、絶望の象徴であった禍々しい暗雲が、中心からゆっくりと晴れていき、そこから何日も閉ざされていた太陽の光が、まるで天の祝福のように地上へと差し込み始めた。
その光に照らし出されたのは、巨大な機械がその動力を失ったかのような、静かな崩壊の光景だった。
昨日まで王国軍を蹂躙していた異形の魔物たちは、その形を保てなくなり、砂のように崩れ、あるいは光の粒子となって消えていく。
アルドゥスの魔術で心を支配されていた兵士たちは、糸の切れた操り人形のように次々と大地に倒れ伏し、ある者は虚ろに空を見上げ、ある者は自分が犯した残虐行為の記憶の断片に、声もなく嗚咽していた。
対するアイギスの壁の守備兵たちは、そのあまりに突然の静寂に、何が起きたのかを理解できずにいた。
彼らは血と泥にまみれ、疲労困憊の極みにありながらも、なお盾を構え、剣を握りしめている。
だが、彼らの目に映るのは、混乱し、自壊していく敵の姿だけだった。
戦場の轟音は止み、代わりに、困惑と、そして信じられないというような、かすかな希望の囁きが、あちこちから聞こえ始めた。
リアムは、眼下で起きている奇跡に、ただ固く拳を握りしめた。
やがて、彼らの視界の先に、「アイギスの壁」が見えてきた。
要塞を覆っていた禍々しい暗雲は完全に消え去り、南国の強い太陽の光が、その傷だらけの城壁を照らしている。
彼らが要塞の上空に近づくと、城壁の上にいた兵士たちが、一斉に空を見上げ、そして、誰からともなく、歓声を上げ始めた。
それは、最初は小さな声だったが、やがて、要塞全体を揺るがすほどの、割れんばかりの大歓声へと変わっていった。
戦いの終わりを、そして、平和の訪れを、誰もが悟ったのだ。
アイギスの壁の中央広場に竜が降り立つと、一瞬、全ての音が止んだ。
何千という兵士たちが、ただ息を呑んで、竜の背から降り立つ三人の姿を見つめていた。
ボロボロの衣服、無数の傷、そして極度の疲労。
しかし、その姿は、どんな王侯貴族よりも、神々しく見えた。
次の瞬間、リアムの副官を務めていたベイラー将軍が駆け寄ってきて、リアムの前に立つと、力強く敬礼した。
「総員、武器を収めよ!リアム様と、王国を救った勇者たちの、ご帰還だ!」
その言葉を皮切りに、広場は熱狂の渦に包まれた。
兵士たちは、武器を放り出し、兜を空に投げ、あるいはただ泣き崩れながら、三人の名を叫び続けた。
それは、単なる勝利への賛美ではない。
地獄のような悪夢から解放された、魂からの感謝の雄叫びだった。
リィナは、自分に駆け寄る衛生兵たちを後目に、近くで呻いていた重傷者の元へとふらつきながら歩み寄ろうとする。
しかし、その数歩が限界だった。
膝から崩れ落ちそうになる彼女を、駆けつけた衛生兵が寸前で支えた。
リアムは、駆け寄ってきた部下たちの肩を力なく叩き、差し出された水袋の水を、乾ききった喉へと流し込んだ。
カイルは、その熱狂の渦の中心で、ただ静かに、空を見上げていた。
空は、どこまでも青く、澄み渡っていた。
長かった戦いは、終わったのだ。
これから始まる、困難で、しかし希望に満ちた、新しい世界を築くための仕事は、まだ始まったばかりだったが。




