第二話 闇を抱く者たち
三日後、領主館の一室に急遽設置された捜査本部は、早くも情報の洪水に見舞われていた。
壁にはストーンハート領とその周辺の巨大な地図が貼られ、床と机の上は、おびただしい量の書類、羊皮紙の巻物、そしてカイルが走り書きした無数のメモで埋め尽くされている。
窓の外は、まるで世界の悲しみを映すかのように、重たい鉛色の雲に覆われ、時折冷たい雨がガラスを叩いていた。
「捜査対象を絞る」
カイルは、壁に貼り付けた巨大な相関図の中心、ガレス・ストーンハートの名を指しながら言った。
その相関図には、ガレスと繋がりがあった人物たちの名が線で結ばれ、カイルの几帳面な文字で関係性や疑問点が書き込まれている。
彼の鳶色の瞳には、三日間の不眠による疲労の色が浮かんでいたが、それ以上に鋭い分析の光が宿っていた。
リィナは彼の隣で、真剣な表情でペンを握りしめている。
そして、部屋のもう一方では、腕を組んだゲルハルト隊長が、不機嫌そうな顔でカイルを睨みつけていた。
アルベリヒ執政官の命令で、彼もこの捜査に加わることになったのだ。
「これまでの聞き込みと現場の状況から、容疑者となりうる人物は、大きく分けて四つの方向性が見えてきた」
カイルは、ゲルハルトの敵意を意にも介さず、リィナとゲルハルトに向き直り、説明を始めた。
その声は、混乱した情報を整理し、道筋を立てようとする強い意志に満ちていた。
「第一に、英雄リアム・ブレイド。民衆は彼を『疾風のリアム』と呼び、その剣技は竜さえも切り裂いたという。ガレス様とは、戦場で互いの背中を預け合った無二の親友。だが、その光が強ければ、影もまた濃くなる。数年前に英雄の座を捨てて放浪者となってからは、酒と博打に溺れ、各地で問題を起こしているという黒い噂が絶えない。かつての輝きは見る影もなく、その目には全てを諦めたような虚ろな光が宿っていた、とも。長年の友情が、嫉妬や絶望によって憎しみに変わったとしても不思議ではない。問題はアリバイだ。彼は事件当時、ここから馬で五日はかかる西の港町にいたとされているが、その証言は曖昧すぎる。これが巧妙な偽装工作である可能性を、我々は考慮しなければならない」
「馬鹿を言え!」
ゲルハルトが、ついに我慢しきれずに怒鳴った。
「リアム・ブレイド卿は、ガレス様と共に竜を討伐された大英雄だぞ!そのような方を、何の証拠もなく、噂だけで疑うなど不敬にもほどがある!」
「では、ガレス様ほどの英雄を殺害できる実力を持つ者が、他にいるとでも?」
カイルは冷ややかに言い返した。
「感情論で捜査が進むなら、我々は必要ない。我々は聖人伝を書いているのではない。殺人事件の捜査をしているのだ。全ての可能性を検討する」
ゲルハルトはなおも食い下がろうとしたが、カイルはそれを無視して次の人物を指した。
「第二に、エルフの長老フィオラ・シルヴァームーン。森の賢者、あるいは人間にとっては森の魔女とも呼ばれる存在だ。彼女は数百年の時を生き、この世界の変遷を見つめてきた。かつて、彼女の先祖は人間と友好条約を結んだが、人間側の一方的な裏切りによって聖なる森の一部が焼き払われたという苦い歴史がある。それ以来、彼女は人間を一切信用していない。領地の開発計画を巡るガレス様との対立は、彼女にとって、その歴史の繰り返しに他ならなかっただろう。彼女の敵意は、ガレス個人というより、森を蝕む人間という種そのものに向けられている可能性がある。だとすれば、今回の事件は、彼女にとって『世界の歪みを正すための儀式』の一つなのかもしれない。そして何より、彼女は古代文字の専門家だ。現場のルーン文字の謎を解く鍵を握っていることは間違いない」
まだ不満そうなゲルハルトを無視してカイルは続けた。
「第三に、ドワーフの鍛冶師グリムロック・アイアンフィスト。誇り高く、一度結んだ忠誠は決して違えぬドワーフの典型。彼がガレス様のために打った剣や鎧は、数々の戦場で主の命を救ったと聞く。その彼が、事件について頑なに口を閉ざしている。それはなぜか。ドワーフの掟が、依頼主の秘密を守らせているのか。それとも、何か巨大な力への恐怖か。彼の工房の不振、つまり質の良い鉱石が取れなくなったという噂と、ガレス様が彼に依頼したという『特別な武器』。この二つは無関係ではないはずだ。彼は嘘をついているのではない。真実の一部を、恐怖によって語れないだけだ。彼が恐れる『何か』こそが、この事件の核心かもしれん」
カイルは最後に、一人の女性の名を指した。
「そして、第四に、ガレス様の私設秘書、イリス・クレール。没落した地方貴族の娘で、幼い頃にガレス様に引き取られたと聞く。当初は希望に満ちていた彼女が、なぜ今は感情を失った人形のようになっているのか。最も危険なのは、失うものが何もない人間だ。そして、あの完璧すぎる証言は、まるで他人の知恵を借りているかのようだ。彼女は操り人形なのか、それとも、人形のふりをした操り師なのか。それを見極める必要がある」
カイルは説明を終え、ゲルハルトとリィナを真っ直ぐに見つめた。
「我々の捜査の対象は、この四つの闇を叩くことに絞る」
◇
イリスは、領主館の西棟にある客室の一つに保護されていた。
窓の外には手入れの行き届いた薔薇園が見えるが、彼女はそれに見向きもせず、ただ虚ろな目で壁の一点を見つめている。
部屋は賓客用のため、調度品はどれも一級品だが、人の暮らす温かみがなく、まるで美しい鳥籠のようだった。
リィナはまず、彼女の身の回りの世話を申し出る形で近づき、日常会話から始めた。
「ガレス様は、どのようなお方でしたか?お好きだった食べ物とか、何かご趣味は…」
「領主様は…偉大な方でした。食事は質素なものを好まれ、趣味といえば、古い歴史書を読まれることくらいでしょうか」
イリスは、感情を殺した事務的な口調で答える。
あまりに完璧な答えが、かえって彼女の心の壁の高さを物語っていた。
「イリスさんは、どちらのご出身なんですか? 私はこの町のはずれの、小さな農家の生まれなんです。実家では、今でもベリーを育てていて…」
リィナは自分の身の上を明かし、共感を得ようと試みた。
その言葉に、イリスの肩が一瞬だけ強張った。
ベリーという言葉に、彼女の脳裏にかすかな記憶がよぎる。
陽光の降り注ぐ庭で、優しい母親とベリーを摘んだ、遠い日の記憶。
だがそれはすぐに、今の冷たい現実によってかき消された。
「…昔のことは、忘れました。ここでの暮らしが、私の全てですから」
冷たく拒絶するその声に、リィナは彼女が過去そのものを封印しようとしているのだと感じた。
そこへ、ノックと共にカイルが入室した。
彼の登場に、部屋の空気がさらに冷たく、張り詰めたものになる。
イリスは、カイルの顔を見ると、明らかに怯えたように身を縮めた。
カイルは椅子に腰を下ろすと、単刀直入に切り出した。
「イリス。ガレス様は最近、誰かを恐れていましたか?」
「…いいえ。領主様が、何かを恐れるなど…」
「では、あなたを恐れさせていたのは誰です?」
カイルは、彼女の震える指先を顎で示した。
「あなたは恐怖に怯えている。その震えは、真実を語ることへの恐怖か。それとも、嘘を強要されていることへの恐怖か。それは、ガレス様への恐怖か、それとも、我々がまだ知らない別の何かか?」
その言葉は、鋭い刃のようにイリスの心を抉った。
彼女は唇を固く結び、答えない。
だが、その瞳の奥で、激しい感情の嵐が吹き荒れているのを、カイルとリィナは見逃さなかった。
◇
カイルと、不承不承といった態度のゲルハルト隊長は、ドワーフの鍛冶師、グリムロックの工房を訪れていた。
地底に掘られた工房は、燃え盛る炉の熱気と、絶え間なく響く槌の音で満ちていた。
壁には、彼が過去に打ったであろう、美しい紋様の刻まれた戦斧や盾が誇らしげに飾られている。
だが、作業台の近くに置かれた最近の作品は、どれも鈍い輝きしか放っておらず、どこか精彩を欠いているように見えた。
「グリムロック殿!」
ゲルハルトが、その大きな体に見合った大声で呼びかけた。
「我らが領主様のために、知っていることを話してはくれんか!ガレス様とは、若い頃からの長い付き合いだったではないか。友のために、力を貸してくれ!」
ゲルハルトは、まず情に訴えかける作戦に出た。しかし、グリムロックは振り返りもせず、槌を振るいながら吐き捨てた。
「友、だと? ふん、人間とドワーフが真の友になれるかよ。あれは客で、俺は職人だ。それ以上でも、それ以下でもねえ」
そう言いながらも、彼の視線が一瞬だけ、棚に置かれた古びた酒杯に向けられたのをカイルは見逃さなかった。
ガレスの名が刻まれたそれは、友情の証だったのかもしれない。
「では、職人として聞こう」
カイルが、冷静に言葉を継いだ。
彼は懐から、『特別な武器』の設計図の写しを取り出し、グリムロックの前に広げた。
「この武器は、何だ? この刃の構造、表面に刻まれた奇妙な模様、そして柄に仕込まれた特殊な機構。これは、既知のどんな生物にも過剰な威力を持つ。一体、何を『殺す』ために、ガレス様はこれを注文した?」
設計図を見た瞬間、グリムロックの顔から血の気が引いた。
彼はカイルから設計図をひったくるように奪うと、それを炉の火の中に投げ込んだ。
「部外者が嗅ぎ回るんじゃねえ!」
「答えてもらおう。この武器の製作を、君は一度断ったはずだ。領主の命令を断るとは、よほどの理由があったと見える。この武器…これは特殊な『何か』を破壊するためのものではないのか?」
「うるせえ!」
「ガレス様は、君に何と言ってこれを依頼した? 君を説得した言葉は何だ?」
カイルの執拗な追及に、グリムロックはついに耐えきれなくなったように、怒りと恐怖が混じった声で叫んだ。
「あれは…あれは呪われた武器だ!俺は一度、こんなもんは作れんと断った!だが、ガレス様は…『これしか、世界を救う道はない』と、そう仰せられたんだ…!『友として、最後の頼みだ』と…!」
彼はそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
自らが漏らしてしまった言葉の重さに気づいたかのように。
「…てめえらには関係ねえ!さっさと帰れ!二度と来るんじゃねえぞ!」
グリムロックはそう叫ぶと、工房の奥へと姿を消してしまった。
残された二人は、彼の最後の言葉の、不吉な響きに戦慄していた。
工房からの帰り道、冷たい雨が降りしきる中、ゲルハルトは苦々しげに吐き捨てた。
「だから言ったんだ。ドワーフなんぞにまともな話が通じるか。石頭で、頑固で、自分のことしか考えとらん」
その言葉には、長年の友人であったはずのグリムロックに裏切られたかのような、深い失望が滲んでいた。
「…彼の態度は、ドワーフとしての誇りと、依頼主との誓いを守ろうとする、彼なりの誠実さの表れかもしれない」
カイルは、降りしきる雨を見つめながら、静かに言った。
「何だと? あの態度が誠実だと? 貴様の目は節穴か!あれはただの頑固者だ!」
「物事を、自分の物差しだけで測るな、隊長。彼の沈黙にも、意味がある。彼は嘘をついているのではない。何かを恐れ、真実を言えないでいるだけだ。その恐怖の正体を見つけ出すのが我々の仕事だ」
カイルの冷静な言葉に、ゲルハルトはぐっと言葉を詰まらせた。
そして、カイルの横顔を睨みつけながら、絞り出すように言った。
「…気に入らんな、貴様。だが、ガレス様のためだ。今は、貴様のそのふざけた分析とやらに付き合ってやる」
二人の間には、依然として埋めがたい溝があった。
だが、英雄の死という一つの目的に向かって、彼らは歪ながらも、共に歩き始めていた。
◇
リィナは一人、再び城塞の北に広がるエルフの森の奥深くに立っていた。
「君のほうが適任だ」というカイルの言葉を、彼女は重く受け止めていた。
森の「病」は、数日前よりもさらに進行しているように感じられた。
光を失った苔、奇妙な粘菌、そして不気味なほどの静寂が、森を支配している。
鳥の声さえ聞こえない。
門を守るエルフの戦士は、前回と同じように、冷たい鋼のような視線で彼女を制した。
「また来たのか、人間の娘。何度来ても無駄だ」
「お願いします。フィオラ様にお会いしたいのです」
「聞き飽きた。失せろ」
リィナは、カイルに言われた言葉を思い出していた。
『君の強みは、人を信じ、繋ぎ合わせようとするところだ』
彼女は深呼吸をし、意を決して語り始めた。
「事件のことで来たのではありません。森のことで、お話があるのです」
彼女は、森を歩いていて気づいた、病の兆候を具体的に語り始めた。
小川の水の濁り、苔の色の異変、土から甘い匂いがしないこと。
それは、土と共に生き土の声を聴いて育ってきた彼女だからこそ分かる、大地の悲鳴だった。
最初は冷ややかに聞いていたエルフの戦士も、彼女の専門的で、かつ心からの言葉に、次第にその険しい表情を和らげていった。
しかし、それでも門は開かれなかった。
「…お前の言うことは分かった。だが、それでもフィオラ様はお会いにはなるまい。お引き取り願おう」
リィナは唇を噛み締め、悔しさに涙を滲ませた。
この日も、フィオラに会うことは叶わなかった。
◇
捜査が行き詰まりを見せる中、リィナは町の市場で地道な聞き込みを続けていた。
そこで、彼女は一人の老婆に腕を掴まれた。
「お嬢ちゃん、治安維持部隊の人かい」
老婆は、周囲を警戒しながら、リィナに意味深な言葉を囁いた。
「あの英雄様はな……嘘をついている、何かを隠しているんだよ。竜が……竜は、本当は……」
老婆はさらに声を潜めた。
「それ以上は、言えない。言えば、私もあの『消えた村』の者たちのように……」
老婆はそれ以上語ろうとせず、急いで人混みの中に消えていった。
リィナは、その場に立ち尽くした。
「嘘」「消えた村」…断片的な言葉が、彼女の頭の中で渦を巻いた。
その夜、カイルは一人、ガレスの執務室を再調査していた。
彼は、本棚に並べられた書物の背表紙の並びが、不自然に一冊だけずれていることに気づいた。
その本を引き抜くと、壁に隠された小さな金庫が現れた。
鍵はかかっていない。中には、ガレスが個人的につけていたと思われる、一冊の古い日記が収められていた。
カイルがそのページをめくっていくと、ある記述に目が留まった。
『西部の〇〇村の者たちが、一夜にして全員行方不明になった。家畜も作物も、全て残されたまま。まるで、神隠しだ。竜の呪いか、それとも…』
「竜の呪い…」
カイルは呟いた。
その時、執務室の窓の外で、カツン、と小さな石が窓ガラスに当たる音がした。
カイルは弾かれたように立ち上がり、息を殺して素早く窓に近づく。
カーテンの隙間から外を覗くと、闇の中に、黒いローブをまとった人影が一瞬見えた気がした。
慌てて外を確認するが、誰もいない。
しかし、雨でぬかるんだ地面には、真新しい足跡が一つだけ、くっきりと残されていた。
(気のせいではない…)
カイルは、胸の奥で鳴り響く警鐘を感じていた。
見られている。
自分たちの捜査は、何者かに監視されている。
捜査本部に戻ったカイルは、リィナから老婆の話を聞き、自らは日記の記述と監視者の存在を報告した。
二つの情報は、一つの恐ろしい可能性を示唆していた。
「我々が追っているのは、一人の犯人ではない」
カイルは、険しい表情で言った。
「もっと大きな、名前のない『敵』だ」
事件は、もはや単なる殺人事件ではなかった。
何か巨大な陰謀が、ゆっくりと、しかし確実にその牙を剥き始めていた。