第二十八話 神との戦い
「…解せぬ。その非論理的な『絆』が、私の理を上回るとは。良いだろう。ならば、見せてあげよう。本物の『神』の力を!創造の次の段階を!…『無』を!」
アルドゥスの宣言が、最後の引き金となった。
彼の背後で、『世界の心臓』が、それまでとは比較にならないほど、激しく、そして禍々しく脈動を始める。
アルドゥスの体が、まばゆい光に包まれ、その輪郭が、人の形を失い始めた。
彼を包んでいた光が、一度、極限まで収縮したかと思うと、次の瞬間には、神殿全体を揺るがすほどの衝撃と共に、無限に拡散した。
そこに立っていたのは、もはや賢者アルドゥスではない。
それは、幾何学的な光の紋様が幾重にも重なり合い、常にその形を変え続ける、巨大なエネルギーの集合体だった。
それは、見る角度によって、十の翼を持つ天使のようにも、千の眼を持つ悪魔のようにも見えた。
その中心には、かつてアルドゥスのものだった黄金の瞳が、星のように無数に輝いている。
『我はアルファにしてオメガ。始まりにして、終わり。この世界の、唯一の法にして、絶対の真理なり』
その声は、もはや一人の男の声ではなかった。
何百、何千もの声が完璧に重なり合った、感情のない、美しいコーラスとなって、三人の魂に直接響き渡った。
神と化したアルドゥスとの戦いは、これまでの戦闘とは次元が違った。
彼はもはや魔法を「詠唱」しない。
思考するだけで、世界の法則を書き換えるのだ。
『不確定要素を検出。これより、論理的矛盾を内包する存在を、この時空から削除する』
アルドゥスが、リアムに意識を向けた。
その瞬間、リアムの体が、陽炎のように揺らぎ、透け始めた。
「なっ…!体が…!」
「リアムさん!」
リアムの存在そのものが、この世界から消されようとしていた。
アルドゥスは、彼を「罪を犯しながらも前に進もうとする、不合理な存在」と定義し、その存在を許さなかったのだ。
それだけではなかった。
カイルの記憶から、「リアム・ブレイド」という名前の輪郭が、急速に薄れていく。
リィナの心にも、彼と共に旅をしたはずの記憶に、霞がかかっていく。
「リ…誰だ…?」
カイルが、激しい頭痛に耐えながら眉をひそめる。
(違う!忘れるな!あの不器用な笑顔を!背中を預けてくれた、あの温もりを!)
リィナは、消えゆく記憶の断片を、必死に手繰り寄せた。
そして、彼女は叫んだ。
それは、リアムの名を呼ぶための叫びではなかった。
「カイルさん!思い出して!嘆きの川で、たった一人で狂戦士の群れに飛び込んで、釜を破壊してくれたのは誰!?ヴァルガスの城で、傷つきながらも私たちの盾になってくれたのは誰!?」
その言葉は、カイルの脳内で、絶対的な論理によって破壊されつつあった記憶の回路を、強引に繋ぎ止めた。
そうだ、あの男がいた。
非論理的で、感情的で、しかし、確かに俺の隣にいた存在。
「リアム!」
カイルは、その名を、自らの存在を確かめるように叫んだ。
二人の声が、二人の「彼を忘れない」という強い意志が、錨となって、リアムの消えかけていた存在を、この世界に強引に繋ぎ止める。
「…てめぇらが、俺を覚えている限り…俺は、ここにいる…!」
リアムの体が、再び確かな輪郭を取り戻した。
『思考形式に、致命的な非合理性を確認。これより、論理体系を再構築する』
次にアルドゥスの意識は、カイルへと向けられた。
途端に、カイルの脳内に、人間が到底理解できない、宇宙の真理そのものが、情報の奔流となって流れ込んできた。
「ぐ…あああああっ!」
カイルは、頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
彼の武器である論理的思考が、絶対的な論理そのものによって、内側から蝕まれていく。
「カイル!」
リアムが、その体を盾にするように、カイルの前に立ちはだかった。
「聞こえるか、カイル!難しいことは分からん!だがな、お前がどんなにややこしい顔で考え込んでいても、俺たちは、お前を信じてる!お前が『行け』と言えば、俺は行く!それが、俺にとっての唯一の真実だ!」
リアムの、どこまでも単純で、しかし揺るぎない信頼の言葉。
それは、絶対的な真理の奔流の中に打ち込まれた、不合理だが、強靭な楔だった。
「カイルさん!」
リィナも叫んだ。
「あなたがどんなに難しい顔をしていても、私には分かります!あなたは、誰よりも優しい人です!それが、私が知っている、本当のあなたです!」
二人の声が、情報の奔流に溺れるカイルの意識を、現実へと引き戻す。
そうだ、真理だけが全てではない。
この、不合理で、非効率で、しかし温かい絆こそが、俺が守るべきものだ。
カイルは、目から血を流しながらも、顔を上げた。
その瞳には、もはや論理の光ではなく、仲間を守るという、ただ一つの、燃えるような意志が宿っていた。
『「感情」という名の不純物を検出。これより、浄化を開始する』
最後に、アルドゥスはリィナを見た。
彼の周囲に、無数の光の球体が現れ、それぞれが、リィナがこれまでの人生で感じてきた、全ての「悲しみ」の記憶を映し出した。
戦場で救えなかった兵士の顔。
破壊された村の惨状。
仲間たちの苦悶の表情。
「やめて…」
彼女の心を、純粋な絶望が覆い尽くそうとしていた。
だが、その時、彼女の肩を、二つの手が、力強く支えた。
リアムと、カイルの手だった。
「下を向くな、リィナ」
リアムが言った。
「お前が救った命も、俺は知っている」
「君がいたから、我々はここまで来られた」
カイルが言った。
「君の優しさが、俺たちを繋ぎとめた。君は、我々の希望だ」
二人の言葉が、二人の温もりが、彼女を苛む絶望の幻影を、打ち払っていく。
そうだ、私は一人じゃない。
この二人と共に、未来を作るために、ここにいるんだ。
三人は、再び立ち上がった。
その体は傷つき、疲労は限界を超えている。
だが、その心は、かつてないほど、固く、一つに結ばれていた。
『…解せぬ』
アルドゥスの声に、初めて、困惑の色が浮かんだ。
『なぜ、汝らは、互いを参照することで、自らの存在を定義できる? なぜ、非論理的な感情が、絶対的な論理を退ける? それは、この宇宙の法則における、致命的な欠陥だ…!』
「違うな、アルドゥス」
リアムは、剣を構え直した。
「それこそが、俺たち人間の、最も強い武器だ。お前には、決して理解できない力だ!」
リアムが背後のカイルに叫ぶ。
「カイル、奴の核はどこだ!」
「奴自身が核だ!だが、奴と『世界の心臓』を繋ぐ、あの光の奔流…あそこに、力の循環の僅かな『揺らぎ』がある!そこを叩けば、奴の支配を、一瞬だけ乱せるかもしれない!」
「よし、道は俺が開く!」
リアムが、槍の穂先のように、アルドゥスめがけて一直線に駆ける。
『愚かな』
アルドゥスは、リアムを迎え撃つために、神殿全体の魔力を、一つの点に収束させ始めた。
それは、星すらも砕く、純粋な破壊のエネルギーだった。
リアムの命が、風前の灯火となった、その時。
リィナが、アルドゥスでも、リアムでもなく、祭壇の中心、巨大な『世界の心臓』に向かって、一直線に駆け出したのだ。
「リィナ、よせ!その力に触れれば、お前の精神が持たない!」
カイルが叫ぶが、彼女は止まらない。
彼女は、脈動する巨大な結晶体に、そっと、両手で触れた。
その瞬間、リィナの意識は、この大陸の、数十億年の記憶と一つになった。
生命の誕生、進化の喜び、絶滅の悲しみ。
火山の怒り、大地の温もり、風の歌、水の涙。
そして、この星に生きる、無数の命の、名もなき営み。
愛する喜び、失う悲しみ、憎しみの愚かさ、そして、許し合うことの尊さ。
膨大な感情の奔流が、彼女の魂を押し流し、その自我を消し去ろうとする。
だが、彼女は耐えた。
そして、その全ての感情を、一つの祈りとして、『世界の心臓』へと注ぎ込んだのだ。
それは、言葉にならない、魂の歌だった。
(お願い…!理解して…!傷つき、間違い、それでも、明日には何かが変わるかもしれないと信じて、手を伸ばす。喜びも、悲しみも、全てを抱きしめて、それでも生きていこうとする。その不完全さこそが、私たちの、かけがえのない、たとえ脆くても確かな希望なの…!)
純粋な力と、論理だけで構成されていた『世界の心臓』にとって、リィナが注ぎ込んだ、矛盾に満ちた、しかしどこまでも温かい「感情」は、初めての経験だった。
『世界の心臓』の、機械的だった脈動が、初めて、リズムを乱した。
ドクン、ドクゥン、と、まるで、本当の心臓のように。
その表面を覆っていた純白の光が、リィナの祈りに応えるかのように、温かい黄金色へと変わっていく。
『異常。異常。論理体系に、未定義の変数を検出。理解不能。理解不能…!』
『世界の心臓』と一体化していたアルドゥスの精神が、その予期せぬ変化に悲鳴を上げた。
彼にとって、「感情」は排除すべき誤りであり、理解を超えた脅威だった。
『やめろ…!私の完璧な世界が、汚染されていく…!』
『世界の心臓』は、アルドゥスという異物を、自らの内側から拒絶し始めた。
彼が吸収した膨大な魔力が、制御を失い、彼の神なる体の中で暴走する。
『なぜだ…!?なぜ、世界は、矛盾を、非効率を、不合理を、選ぶのだ…!完璧こそが…救済、なのに…!』
神になろうとした男の、最後の、そして唯一の、感情的な叫びが、神殿に響き渡った。
次の瞬間、アルドゥスの体は、内側から溢れ出した光によって、跡形もなく消滅した。
彼がいた場所には、ただ、静かに、そして温かく脈動を続ける、『世界の心臓』だけが残されていた。




