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誰が英雄を殺したか — 竜殺しの英雄 —   作者: 神凪 浩
第四章 終焉の賢者
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第二十六話 賢者の教義

 守護者の試練を乗り越えた三人が足を踏み入れた神殿の最深部は、人の言葉では到底表現しきれない、荘厳な空間だった。

 そこは、ドーム状の巨大な空洞だった。

 壁も、床も、天井も、全てが乳白色に輝く生きた水晶でできており、穏やかな光を放っている。

 そして、その空間の中心には、家ほどもある巨大な結晶体が、何にも触れることなく宙に浮かんでいた。

「世界の、心臓…」

 リィナが、畏敬の念に打たれて呟いた。

 結晶体は、ゆっくりと、そして確かに脈動していた。

 ドクン、ドクン、という低い鼓動が、音ではなく振動として三人の全身を震わせる。

 脈動のたびに、結晶体の中から虹色の光が溢れ出し、無数の光の粒子となって空間を漂った。

 それは、生命の源そのものが放つ、原初の魔力だった。

 空気は、吸い込むだけで魂が浄化されるような、清浄な力で満ちている。

 そして、その『世界の心臓』の前に、一人の男がこちらに背を向けて浮かんでいた。

 賢者アルドゥス。

 彼は、儀式用の純白のローブをまとい、静かに目を閉じ、その両手を心臓へと差し伸べている。

 彼の体は、心臓から溢れ出す光の粒子を吸収し、その輪郭がわずかに輝き、透けているようにも見えた。

 彼は、この世界の根源と、一つになろうとしていたのだ。


 三人の気配に気づくと、アルドゥスはゆっくりと振り返った。

 彼の表情は、驚くほど穏やかだった。

 ヴァルガスのような憎悪も、セレーネのような復讐心も、そこにはない。

 ただ、全てを理解し、全てを超越したかのような、静かな慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

 だが、その瞳だけが、人ならざる黄金色の光を宿し、この世界のどんな知識よりも古い、深淵の叡智を湛えているかのようだった。

「ようこそ、客人たち。私の新たな世界の、最初の目撃者となる皆さん」

 彼の声は、神殿の隅々まで、優しく響き渡った。

「君たちが、あの面倒な守護者の試練を乗り越えることは、計算通りだよ。不完全な魂を持つ者ほど、強い意志を示すものだからね。その意志の力、実に興味深いサンプルだった」

「アルドゥス…!一体、何をしようとしている!」

 リアムが、怒りを込めて剣を構える。

 だが、アルドゥスは全く動じない。

「見て分からないかな?私は、この世界を『完成』させようとしているのだよ。この『世界の心臓』と一体化し、その全能の力をもって、この世界の法則を書き換える。悲しみも、苦しみも、争いも、病も、死さえも存在しない、完璧で、永遠に幸福な世界を創造するのだ」

 彼は、まるで子供に語り聞かせるように、自らの壮大な計画を説き始めた。

「私は、魔法の探求の果てに、この世界の成り立ちの真実にたどり着いた。この世界は、巨大な織機が織りなす、一枚のタペストリーのようなものだ。そして、そのタペストリーには、致命的な『傷』、あるいは『欠陥(バグ)』が存在する。それが、君たちが『心』や『自由意志』と呼ぶものだ。それは、予測不可能な混沌を生み、争いや悲しみといった、無意味な副産物を際限なく生み出し続ける。私は、その『傷』を修復し、完璧な模様のタペストリーを、織り直そうとしているのだよ」

「ふざけるな!お前が作ろうとしているのは、ただの操り人形の世界だ!」

「その通りだよ、リアム・ブレイド」

 アルドゥスは、こともなげに肯定した。

「君は試練の中で、自らの罪と向き合った。そして、それを背負って進むと誓った。実に、人間らしい、愚かで、そして美しい自己満足だ。だが、私の世界では、そもそも君が苦しむ原因となった『選択の過ち』が存在しない。罪悪感に苛まれる夜も、友を失う悲しみもない。永遠の安らぎだけがある。君が本当に友を思うなら、誰もが二度と君のような苦しみを味わわない世界を、望むべきではないのかね?」

 彼の言葉は、リアムの最も痛い部分を的確に抉った。

 リアムは、思わず言葉に詰まる。

「君たちには、理解できないだろうね。私が、なぜここまで『感情』を排除しようとするのか」

 アルドゥスは、遠い過去を懐かしむように、ふっと目を細めた。

 その黄金色の瞳の奥に、一瞬だけ、人間らしい寂寥(せきりょう)の色がよぎった。

「かつて、私にも家族がいた。魔法の才能だけが取り柄の、ただの青臭い学者だった私を、心から愛してくれた妻と、私の無骨な手をおもちゃにして笑う、太陽のような娘がいた。あの頃の私は、君たちと同じように信じていたよ。不完全さの中にこそ美しさがあり、感情の揺らぎこそが人間らしさなのだと。だが、その全ては、ある日、あまりにも無意味に、そして残酷に奪われた」

 彼の声から、温度が消えた。

「私の妻と娘は、竜に殺されたのではない。魔物に食われたのでもない。ただ、隣り合う二人の貴族が起こした、些細な領地争いに巻き込まれて死んだのだ。原因は、嫉妬、虚栄心、そして長年蓄積された些細な憎しみ。どちらが正しく、どちらが悪ということもない、ただの感情の暴走だった。燃え盛る屋敷の瓦礫の中から、私がこの手で掘り出したのは、もはや人の形を留めていない、二つの炭の塊だったよ」

 神殿に、息を呑むような沈黙が満ちる。

「その時、私は悟ったのだ。この世界における真の『悪』とは、人の心に巣食う、この予測不可能な『感情』そのものなのだと。私は悲しみを乗り越えるために知識を求めたのではない。悲しみという感情そのものを、この世界から根絶するために、世界の根源へと至った。私がこれから行うことは、復讐ではない。私が愛した者たちに捧げる、唯一にして永遠の、そして最大の『愛』なのだ。二度と誰も、私のような絶望を味わうことのない、完璧な世界。それこそが、究極の救済だと思わないかね?」

 アルドゥスは、次にリィナへと視線を移した。

「大地の娘。君は不完全さの美しさを語った。だが、それは強者の論理だ。君には、仲間がいた。才能があった。だが、戦乱で名もなく死んでいった者たちはどうだ?私の『(ささや)きの霧』で、安らかに死を受け入れた者たちは、本当に不幸だったとでも?苦しみながら無意味に死ぬことと、苦しみを知らずに安らかに消えること、どちらが真の慈悲だと、君は言うのかね?」

 その言葉に、リィナの脳裏には難民キャンプで見た、生きる気力を失った孫娘と老婆の姿が鮮明に蘇った。

 あの恐るべき灰色の霧、その正体こそが『囁きの霧』だったのだ。

 彼女は、光のない瞳の子供の顔を思い出し、唇を固く噛み締めた。

 彼の言葉は、彼女の優しさそのものを、揺さぶろうとしていた。

 最後に、アルドゥスはカイルを見つめた。

 その黄金の瞳は、カイルの魂の奥底まで見通しているかのようだった。

「そして、カイル・ヴァーミリオン。真実を求める者。君は、仲間との絆という、新たな『真実』を見つけたと。結構だ。だが、その絆もまた、いつか必ず、死によって引き裂かれる。君は、再び喪失の痛みを味わうことになる。私が提供するのは、永遠の秩序だ。別れも、死も、喪失もない。全ての存在が、定められた場所で、論理的に、完璧に機能し続ける。君が愛するその仲間たちも、永遠に、君の隣に在り続けることができるのだ。君が本当に彼らを大切に思うなら、この永遠を選ぶべきではないのか?」

 それは、カイルにとって、悪魔の囁きであると同時に、抗いがたいほどの魅力を持つ誘惑だった。

 彼の人生そのものを肯定し、その最終地点を示されたかのようだった。


 しばしの沈黙の後、最初に口を開いたのは、リアムだった。

「…俺の罪は、俺のものだ。俺があの時ガレスを止められなかった後悔も、その痛みも、全て、俺があいつを親友だと思っていた証だ。その記憶ごと消し去られる安らぎなど、俺はごめんだ。俺は、この痛みと共に、あいつとの約束を果たしていく」

 続いて、リィナが、震える声ながらも、はっきりと顔を上げた。

「苦しみを知らない世界は、きっと、優しさも知らない世界です。誰かの痛みが分かるから、人は手を差し伸べられる。あなたの言う『慈悲』は、ただの無関心です。私は、そんな空っぽの世界は、絶対に認めません!」

 そして、最後にカイルが、静かに、しかし、決して折れることのない意志を込めて言った。

「お前の『真実』は、押し付けられた答えに過ぎない。俺が求めているのは、そういうものじゃない。不完全な情報の中から、自分の頭で考え、悩み、時に間違いながらも、それでも手を伸ばして掴み取る、自分だけの真実だ。他者から与えられた完璧な答えなど、ただの思考停止だ。お前の世界は、完璧な牢獄だ。そして俺は、その中で生きることを、断固として拒絶する」

 三人の答えを聞き、アルドゥスの表情から、ついに笑みが消えた。

 代わりに浮かんだのは、出来の悪い生徒に最後の講義を始める、教師のような、冷たい憐憫の色だった。

「…そうか。残念だよ。君たちは、最後の試練に合格できなかったようだ。自由意志という『病』は、私が思った以上に、深く君たちの魂を蝕んでいるらしい」

 アルドゥスは、天に掲げていた両腕を、ゆっくりと下ろした。

「ならば、力ずくで理解させてあげよう。不完全であることの、無意味さを」

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