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誰が英雄を殺したか — 竜殺しの英雄 —   作者: 神凪 浩
第四章 終焉の賢者
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第二十四話 神の歪んだ楽園

 軍議を終えた三人は、新たに司令官となったベイラーに見送られ、『アイギスの壁』で最も高い監視塔の頂上に立っていた。

 眼下には、終わりなき消耗戦を続ける自軍と、おびただしい数の敵軍が蠢く、地獄のような戦場が広がっている。

 そして、遥か南の地平線は、アルドゥスが作り出した巨大な魔法結界によって、不気味な薄暮の色に染まっていた。

「それで、どうやってあの神様の庭まで行くんだ?」

 リアムが、眼下の戦場を睨みながら吐き捨てるように言った。

「あの肉挽き機の中を、三人で歩いていくとでも言うのか?」

「いいえ」

 カイルは南の空を指差した。

「歩きません。我々は、飛びます」

 カイルの言葉に応えるように、リィナはそっと目を閉じた。

 彼女は言葉ではなく、大地との繋がりを頼りに、心の中で一つの存在に強く呼びかけた。

(お願い…!私たちを、導いて…!)

 その祈りが通じたかのように、彼らの頭上に、突如として巨大な影が差した。

 雲を突き抜け、音もなく降下してきたのは、解放された竜だった。

『…覚悟は、決まったか』

 竜の声が、三人の魂に直接響いた。

 三人は黙って頷くと、その広大な背中へと登った。

 竜が翼を一度、力強く羽ばたく。

 凄まじい風圧と共に三人の体は宙に浮き、『アイギスの壁』がみるみるうちに小さくなっていく。

 眼下に広がるのは、まさに地獄絵図だった。

 泥と血で赤黒く染まった大地の上で、おびただしい数の兵士たちがぶつかり合い、無数の魔法の光が炸裂している。

 一人一人の兵士の顔までは見えない。

 だが、その場所から発せられる絶望と恐怖の波動は、大気を震わせ、リィナの肌を突き刺した。

 彼女はあまりの苦痛に顔を歪め、ぎゅっと目を閉じる。

 リアムは、その光景を、歯を食いしばりながら見下ろしていた。

 あの地獄の中に、自分の部下たちがいる。

 自国のために戦うと決めた兵士たちが、今この瞬間も命を散らしている。

 その重い現実に、彼の心は張り裂けそうだった。

 カイルだけが、冷静に戦場全体を分析していた。

 個々の戦闘ではなく、全体のエネルギーの流れを。

 彼の目には、戦場が、アルドゥスの儀式のために魂を収穫する、巨大な祭壇として映っていた。


 やがて戦場を抜け、南へ進むにつれて、眼下の大地はさらにその様相を変えていく。

 混沌とした生命力に満ちているはずのジャングルは、まるでガラス細工のように不自然に輝き、川は水銀のように鈍い光を放っていた。

 そして、ついに彼らの眼前に、巨大な半球状の魔法結界がその全貌を現した。

 空と大地を分かつ、禍々しくも美しい光のドーム。

 竜はその結界の前で滞空すると、三人に語りかけた。

『この先は、我が力も及ばぬ、奴が作り変えた法則の世界だ。だが、一箇所だけ、綻びがある。そこから先は、汝らの旅路だ』

 竜は、結界の一点で不規則に光が明滅している箇所に向き直ると、翼をたたみ、一直線にそこへと向かって急降下を始めた。

 耳を劈くような風切り音の中、三人は竜の背中に必死にしがみつく。

 竜の広大な背中から、三人は、アルドゥスが作り上げた魔法結界の僅かな綻びへと飛び降りた。

 結界を通過した瞬間、背後で絶えず響いていた戦争の轟音と悲鳴が、まるで分厚い壁に遮られたかのように、ぷつりと途絶える。

 代わりに彼らを包んだのは、墓場のような、不自然なまでの静寂だった。


 そこは、常識が通用しない世界だった。

 結界の中、アルドゥスの領地では、空は常に穏やかな薄暮の色をしていた。

 決して夜にはならず、強すぎる日差しもない。

 暖かくも寒くもない、完璧に調整された空気が肌を撫で、どこからともなく、心を落ち着かせる微かな花の香りが漂ってくる。

 道端には、見たこともないほど完璧な形をした果実がたわわに実り、色とりどりの花々が、一輪の枯れもなく、一匹の虫もつかず、まるで宝石細工のように咲き誇っていた。

「なんて、美しい場所…」

 リィナは、そのあまりに完璧な光景に、思わず感嘆の声を漏らした。

 だが、カイルはその美しさの中に、底知れぬ違和感と恐怖を感じていた。

「…静かすぎる」

 そう、この楽園には生命の音がなかった。

 鳥のさえずりも、虫の羽音も、風が木々の葉を揺らす音すらしない。

 全てが、一枚の美しい絵画のように、完璧に静止していた。


 彼らは、神殿へと続く道にある、最初の村へと足を踏み入れた。

 石畳の道は(ごみ)一つなく、家々の壁は真新しく、全ての窓が同じ角度で開け放たれている。

 村人たちは、皆、穏やかで満ち足りた表情を浮かべていた。

 彼らは、三人の来訪に驚くでもなく、警戒するでもなく、ただ静かな微笑みで会釈するだけだった。

 その瞳は、美しいガラス玉のように澄んでいるが、何の感情も映していなかった。

 三人は、情報を得るため、そして何よりこの世界の異常さを探るため、村の中央にある食堂を兼ねた宿屋に入った。

 店内もまた、非の打ち所なく清潔で、静かだった。

 客たちは、テーブルにつき、静かに木製のカップを傾けているが、誰一人として言葉を交わそうとはしない。

「いらっしゃいませ、旅の方」

 宿屋の主人が、穏やかな、しかし感情の読めない笑顔で三人を迎えた。

「腹が減っている。何か食い物と、一番強い酒を頼む」

 リアムが、ぶっきらぼうに言った。

「お食事は、滋養に満ちた果実と、焼きたてのパンをご用意しております。ですが…」

 主人は、困ったように眉をひそめた。

「申し訳ありません、お客様。当館に、そのような心を乱す飲み物はございません。ですが、飲むと心が安らぐ、清らかな泉の水がございます」

「酒も置いていないのか…」

 リアムは、呆れたようにため息をついた。

 アルドゥスは、悲しみや怒りだけでなく、それらに繋がりかねない、興奮や酔いといった感情の揺らぎさえも、この世界から排除しているのだ。

 その時だった。店の隅で、完璧に同じ形をした積み木で遊んでいた幼い少女が、不意にバランスを崩して、床に強く膝を打ち付けた。

 硬い木の床に、鈍い音が響く。

 彼女の白い膝から、ぷくりと血の玉が浮かんだ。

「!」

 リィナは、思わず駆け寄って手当てをしようとする。

 だが、少女は、泣かなかった。

 痛みに顔を歪めることすらしなかった。

 彼女は、血の滲む自らの膝を、不思議そうに一瞥すると、何事もなかったかのように立ち上がり、再び積み木遊びを始めた。

 その顔には、あの穏やかで、虚ろな微笑みが浮かんでいるだけだった。

 リィナは、その光景に、背筋が凍るような恐怖を感じた。

 痛みを感じないのではない。

 痛みという「感覚」はあっても、それに伴う「苦痛」や「悲しみ」という「感情」が、綺麗に抜き取られているのだ。

 そこへ、少女の母親らしき女性が近づいてきた。

「ご親切にどうも。でも、ご心配には及びませんわ」

 彼女は、リィナの心配を、心から理解できないというように、静かに言った。

「ここでは、痛みはすぐに消えますから。主アルドゥス様が、私たちから、そのような不要なものを取り除いてくださいましたの」

 その言葉は、リィナの心を絶望させるのに、十分だった。


 村を抜け、神殿に近づくにつれて、風景はさらに異様さを増していった。

 大地は水晶のように透き通り、内部の鉱脈が淡い光を放っている。

 木々は、まるでガラス細工のように虹色に輝き、その枝が触れ合うたびに、澄んだ、しかしどこか悲しい音色を奏でた。

 川には澄み切った水が、音もなく流れている。

 本来なら獰猛であるはずの魔獣たちが、その川のほとりで、草食動物のように静かに水を飲んでいた。

 その瞳は皆、一様に、アルドゥスのものと同じ黄金色に輝いていた。

「全てを、作り変えているのか…」

 リアムは、その異常な光景に、吐き気を催した。

「ヴァルガスの領地は、憎しみと狂気で満ちていたが、それでもまだ、生命の匂いがした。だが、ここは…ここは、ただ美しいだけの、巨大な墓場だ」

 カイルは、黙って周囲を観察し、全ての情報を記憶に刻み付けていた。

 アルドゥスが何をしようとしているのか、その狂気の規模を、彼は肌で感じ取っていた。

 リィナは、ただ、大地に手を触れていた。

 かつて聞こえていた、温かい土の声、草木の歌声は、もう聞こえない。

 代わりに聞こえるのは、美しい水晶の大地の、静かで、冷たい、沈黙だけだった。


 さらに数日旅を続けた頃、彼らの視界の先に、地平線から天へと突き抜ける、巨大な光の柱が姿を現した。

 それは、太陽よりもなお明るく、しかし熱を感じさせない、純粋な魔力の奔流だった。

「あれか…」

 リアムが息を呑む。

 その光景は、神々しいというよりも、むしろ、大地に穿たれた巨大な傷口に、世界の生命そのものが流れ込んでいるかのように見えた。

 三人は、その不吉で美しい光を目指して進んだ。

 やがて、彼らの行く手を阻むように、巨大な外輪山が立ちはだかる。

 古代遺跡『太陽の揺り籠』を抱く、巨大なカルデラだった。

「登るしかないか」

 カイルは、切り立った崖を見上げた。

 カルデラへの道は、もはや道と呼べるものではなかった。

 足場は脆い頁岩(けつがん)と、滑りやすい水晶質の岩肌が入り混じり、一歩踏み外せば奈落の底へと落ちてしまう。

 強まる魔力の圧力は、体に直接重くのしかかり、呼吸をするたびに肺が軋むようだった。

 リアムが先頭に立ち、腕の力で強引に活路を切り開く。

 カイルが中間で最適なルートを指示し、リィナは最後尾で、崩れやすい岩や、魔力の淀みといった見えない危険を、その鋭敏な感覚で二人へと伝えた。

 何度も足を踏み外しそうになり、落石が彼らのすぐ脇を通り過ぎていく。

 三人は互いの手を掴み、体を支え合いながら、一歩、また一歩と、絶壁を登り続けた。

 数時間に及ぶ苦闘の末、彼らはついに古代遺跡『太陽の揺り籠』がある、巨大なカルデラの縁にたどり着いた。

 眼下に広がる光景に、三人は言葉を失う。

 天から降り注ぐ純粋な魔力の光の柱が、カルデラ湖の中心に突き刺さり、湖全体をエメラルドグリーンに輝かせている。

 そして、その湖の中心に浮かぶ、白亜の神殿。

 その神殿を取り囲むように、巨大な魔法陣が何重にも浮かび上がり、ゆっくりと回転している。

 それは、世界の法則を書き換えるための、巨大な歯車のようだった。

 神殿と、魔法陣と、そして光の柱。

 その全てが、一つの巨大な儀式装置として機能し、この大陸全体の生命力を、今、まさに吸い上げようとしていた。

「あれが…アルドゥスの神殿…」

 空気は、肌をピリピリと刺すほどの、純粋な力で満ちている。

 三人は、覚悟を決め、神殿を目指して、カルデラの斜面を慎重に下って行った。

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