第二十二話 影との決着
三国同盟が内乱寸前の泥沼に足を踏み入れたことで、西方の脅威はひとまず去った。
だが、カイルたちの戦いは終わっていなかった。
全ての元凶である「影の手」セレーネを、このまま野放しにはできない。
蜘蛛の巣を破壊した今、残るは大蜘蛛そのものを狩ることだった。
「彼女は必ず、この街から海へ逃げるはずだ」
リューベックの下水道、彼らの仮の隠れ家で、カイルは壁に貼り付けた都市地図を睨みながら断言した。
「同盟が崩壊した今、彼女にとって西側諸国はもはや安全な場所ではない。船で大陸を離れ、ほとぼりが冷めるのを待つか、あるいは海路で南へ向かい、アルドゥスと合流するかのどちらかだ。そして、この港湾都市リューベックで、最も確実に、そして秘密裏に船を出せる場所は一つしかない」
カイルの指が、地図の端にある一点を指し示した。
古くから「船の墓場」と呼ばれ、今はもう使われていない古い港区。
そして、その港をただ一つ照らし続ける、孤立した古い灯台。
その港が、恐らく、最後の決戦の場となるだろう。
カイルの直感がそう告げていた。
霧の濃い夜だった。
カイルとリィナは、黒い外套で身を包み、音もなく古い港区の屋根の上を駆けていた。
潮の香りに、腐った木材と海藻の匂いが混じり合う。
眼下には、打ち捨てられた船の残骸が、巨大な獣の骸のように、静かな水面にその黒いシルエットを横たえていた。
人の気配はなく、ただ霧笛のような風の音と、岸壁に打ち付ける波の音だけが響いている。
やがて、二人の視界の先に、霧の中からぼんやりと姿を現す、巨大な建造物が見えた。
古い石造りの灯台だ。
その頂上だけが、弱々しい光を放っている。
「いた…!」
リィナが、息を殺して呟いた。
灯台の頂上、灯りの回廊部分に、確かに一つの人影が立っている。
嵐の夜の海を眺める船乗りのように、その人影は、ただじっと、海の向こうの闇を見つめていた。
カイルとリィナは、慎重に、そして迅速に灯台へと近づく。
入り口の扉には、巧妙な罠が仕掛けられていたが、カイルはそれを冷静に見抜き、一つ一つ解除していく。
螺旋状の石の階段を、足音を殺して登っていく。
頂上に近づくにつれて、風の音が強くなり、そして、微かに、セレーネが纏う夜の香りが鼻を掠めた。
カイルが、灯台の頂上へと続く最後の扉を静かに開ける。
「追い詰められたな、セレーネ」
カイルの声に、漆黒の影がゆっくりと振り返る。
月光と灯台の光に照らされたその素顔は、驚くほど若く、そして凍てつくような美貌の中に、深い哀しみを湛えていた。
「見事な手際だったわ、カイル・ヴァーミリオン」
セレーネの声は、落ち着き払っていた。
「まさか、私の過去まで調べ上げ、私の駒を逆に利用するとはね。あなたのことは、ただの田舎捜査官だと、少し見くびっていたようだわ」
彼女は、皮肉な笑みを浮かべた。
「けれど、その結果を見てどう思うのかしら?あなたは偽りの同盟を、見事な偽りの手紙で崩壊させた。けれど、西方に平和は訪れなかった。私が作り上げた緊張の上のか細い均衡は消え、今や三国は互いに牙を剥き合う、血で血を洗う内乱一歩手前の状態よ。教えてちょうだい、捜査官殿。それも、あなたの言う『正義』なの?自国を守るためなら、他国の民がどうなろうと構わないと?」
その言葉は、隣に立つリィナの胸を鋭く抉った。
彼女は思わず息を呑み、カイルの横顔を見つめる。
カイルは、セレーネの言葉を否定しなかった。
彼の脳裏にも、これから起こるであろう西方の混乱が描かれていたからだ。
「…選んだだけだ」
彼は静かに答えた。
「君が起こそうとしていた、大陸全土を巻き込む復讐戦争と、西側諸国の一時的な混乱。二つの悲劇を天秤にかけ、より犠牲の少ない方を選んだ。そこに、綺麗事の入る余地はない」
「綺麗事…ね」
セレーネは、氷のような笑みを深めた。
「あなたは、愛する者を目の前で奪われる痛みが、本当に分かるというの?私の父も母も、一族の者たちも、あの王家の、偽りの正義によって皆殺しにされた。この数十年間、私はこの復讐のためだけに生きてきた。今さら、止められると思う?」
「それでも、止める」
カイルは剣を構えた。
「悲劇の連鎖を、俺たちの代で断ち切るために」
言葉は、もはや不要だった。
二つの影が、灯台の狭い頂上で激突する。
セレーネの動きは、影の舞手以上に速く、そして正確無比だった。
彼女の体は、まるで重さがないかのように宙を舞い、壁を蹴って襲いかかる。
その二振りの短剣は、予測不能な角度から、カイルの急所を執拗に狙った。
カイルは、防御に徹しながら、冷静に彼女の動きの癖を読み取っていく。
一撃一撃が、俊敏な速さを持っている。
カイルの頬を、腕を、赤い線が走る。
(速い…!だが、彼女の動きは、憎しみに満ちている。その憎しみが、彼女の動きを完璧にし、同時に、僅かな隙を生んでいる…!)
戦いの中、リィナは灯台の巨大なランプに燃料を供給するための、予備の油差しを見つけると、それを手に取り、床に円を描くように油を撒き始めた。
「リィナ!何を…!」
「信じてください!」
リィナの叫びに、カイルは一瞬ためらうが、すぐに彼女の意図を理解した。
彼は、セレーネの攻撃を捌きながら、巧みに油の輪の中心へと彼女を誘導していく。
「終わりよ!」
セレーネは、カイルの防御が乱れた一瞬を突き、渾身の一撃を放った。
だが、それはカイルの罠だった。
彼はその一撃を受け流し、体勢を崩したセレーネを、油の輪の中へと突き飛ばした。
「今です!」
リィナの合図で、カイルは腰のポーチから火口石を取り出し、強く打ち鳴らした。
飛び散った火花が、床の油に引火する。
ゴウッ!という音と共に、炎の壁が瞬時に立ち上り、セレーネの退路を完全に断った。
「ちっ!」
炎は、セレーネが操る「影」の術を無効化する。
初めて見せる狼狽の表情。
影に潜む術を封じられたセレーネに、致命的な動揺が走った。
その隙を突き、カイルの剣が、雷光のように閃いた。
それは、セレーネの心臓ではなく、彼女が握る短剣の根元を、正確に弾き飛ばす一撃だった。
二振りの短剣が、カン、カン、と音を立てて床に転がる。
勝負は、決した。
決着は、あまりにも静かに訪れた。
炎の輪の中心で、セレー-ネは、火傷を負った肩を押さえながら、カイルを睨みつけた。
「…私の負けね。だが、覚えておくといいわ。お前たちがヴァルガスを倒し、私を退けたところで、何も終わりはしない」
彼女は、懐から小さなガラスのカプセルを取り出し、躊躇なくそれを噛み砕いた。
口の端から、黒い血が流れ出す。
「賢者アルドゥスは、ただの魔術師ではない。彼は、竜の力を超える、古代の『何か』を手に入れようとしている…。お前たちが信じる希望など、彼の前では、塵芥に等しいと知るがいい…」
セレーネは、そう言い残すと、最後の力を振り絞り、燃え盛る炎の壁を突き抜け、灯台から海へとその身を投げた。
漆黒の影は、深い海の闇へと、静かに消えていった。
西方の脅威は去った。
しかし、それは、より大きな絶望の始まりを告げるものでしかなかった。
カイルとリィナは、灯台の上から、南の空を見つめた。
そこでは今も、リアムが、そしてエレジア王国軍が、アルドゥスの率いる神を名乗る軍勢と、死闘を繰り広げているはずだ。
彼らの本当の最後の戦いは、これから始まろうとしていた。




