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第二十一話 砂上の楼閣

 ニュルンの領主オットーの居城「鉄猪城(アイアンボア)」の作戦室は、武骨な石壁に囲まれ、壁には彼がこれまで討ち取った魔獣の巨大な頭蓋骨が飾られていた。

 中央の樫のテーブルには、リューベック周辺の詳細な軍事地図が広げられている。

 オットーは、鉄の篭手を嵌めた手で、老司書アルブレヒトが持参した手紙を握り潰さんばかりに睨みつけていた。

「ゲオルグの奴…!この私を裏切るとはな!」

 手紙に記された、ゲオルグ自身のものと寸分違わぬ筆跡。

 それは、オットーを排除し、ヒルデガルドと組んで同盟の全権を掌握するという、彼の裏切りを克明に告発していた。

「閣下、お待ちください。これはあまりに…あまりに都合が良すぎます。王国のスパイによる罠かもしれません」

 オットーの副官である老将軍が、冷静に進言する。

 だが、猜疑心と、商人への根深い軽蔑に凝り固まったオットーの耳には、その言葉は届かなかった。

(商人めが…)

 オットーは、初めてゲオルグと会った日のことを思い出していた。

 戦場で鍛え上げられた自分の手とは違う、柔らかく、指輪で飾り立てられたゲオルグの手。

 常に計算高く光る、何を考えているか読めない瞳。

 オットーは本能的に、あの男を信用していなかった。

 金の匂いに群がり、利益のためなら平気で信義を裏切るハイエナ。

 それが、彼の中のゲオルグ像だった。

(思い返せば、奴の態度は常におかしかった。同盟の会議でも、口先ばかりで具体的な軍事協力には常に消極的だった。奴が興味あるのは、我らが血を流して勝ち取った後の、甘い汁だけだ!)

 怒りが、彼の冷静な判断力を鈍らせていく。

「申し上げます!」

そこへ、彼の配下の密偵が駆け込み、膝をついた。

「リューベックにて、不審な動きを掴みました。ゲオルグ市長の側近が、ここ数日、ザルツのヒルデガルド伯爵の使者と、港の裏通りにある酒場で頻繁に密会を重ねているとのよし。また、市長の個人金庫には、セレーネ様からの軍資金とは別に、出所不明の南方の金塊が運び込まれたとの噂が…」

 それは、カイルが「影雀」を使って流した、巧妙に真実を混ぜ込んだ嘘だった。

 だが、すでに疑心暗鬼に陥っているオットーにとって、それは裏切りの動かぬ証拠に他ならなかった。

「…よろしい」

 オットーは、静かに、しかし煮えたぎるマグマのような怒りを込めて言った。

「あの欲深い商人に、本当の戦争というものを教えてやる。奴が愛してやまぬ交易路を、我が軍の力で完全に封鎖してしまえば、金の力など無力であることを思い知るだろう」

 彼は作戦地図の上に、力強く鉄猪の紋章が刻まれた駒を置いた。

「第一、第二軍団を即時出陣させよ!リューベックとの東部国境線に展開!表向きは『合同軍事演習』と称し、街道を完全に封鎖せよ!測量技師を同行させ、投石機とバリスタの設置場所を確保。砦を築き、持久戦に備えろ!あの商人が泣いて詫びを入れてくるまで、一匹の蟻とて国境を越えさせるな!」

 オットーの号令一下、ニュルンが誇る屈強な重装歩兵軍団が、鉄の猪の紋章を掲げ、整然とリューベックへと進軍を開始した。

 磨き上げられた鋼鉄の鎧と、寸分の隙なく並べられた盾の列は、それ自体が強大な威圧感を放っていた。



「なんだと!オットーが、軍を国境に!?理由も告げずに!?」

 リューベックの市長室で、ゲオルグは伝令からの報告に、絹のハンカチで額の汗を拭った。

 彼の豪華な執務室の窓からは、活気あふれる港が一望できたが、その光景も今の彼の目には入らなかった。

 彼は軍人ではない。

 商人であり、政治家だ。

 彼の武器は、金と、言葉と、情報。

 剥き出しの武力は、彼の最も苦手とするところだった。

(あの筋肉馬鹿め、一体何を考えている!まさか、この私を脅して、同盟の主導権を握るつもりか?それとも…これはセレーネ様の差し金か?私の忠誠心を試しているのか?いや、まさか…オットーが、私を出し抜いて王国と裏で手を結んだとでもいうのか!?)

 疑念が疑念を呼び、彼の頭の中はパニック寸前だった。

 彼は、オットーの自分を見る目に、常に侮蔑の色が混じっていたことを知っていた。

 その視線が、今、現実の脅威となって眼前に迫っている。

 そこへ、彼の側近が、青ざめた顔で駆け込んできた。

「市長!セレーネ様からの定期伝令が、まだ到着しておりません!予定時刻を半日も過ぎております!」

 カイルの配下の「影雀」が、道中で妨害工作を行った結果だった。

 ただでさえ不安なゲオルグにとって、同盟の要であるセレーネからの連絡が途絶えたことは、彼女に見捨てられたという恐怖を掻き立てるのに十分だった。

(そうか…!セレーネ様は、オットーを選んだのだ!私を、このリューベックを、あの猪武者のための生贄にするおつもりなのだ!)

 ゲオルグの商人としての勘が、最悪の結論を導き出す。

 オットーとセレーネが共謀して、自分を排除しようとしているのだ、と。

「…よろしい。ならば、こちらも考えがある。誰も彼も、この私を裏切るというわけだ」

 ゲオルグの恐怖は、やがて怒りへと変わった。

「傭兵団を全て集めなさい!金はいくらでも払うと伝えなさい!市の防衛隊も、全員召集!東の街道に、砦とバリケードを築くのです!あの田舎者に、この偉大なる商業都市リューベックの富と力が、どれほどのものか、思い知らせてやる!」

 ゲオルグの指示は、軍事的な合理性よりも、恐怖と見栄に満ちていた。

 屈強な傭兵たちが、統一性のない様々な武器を手に、慌ただしく防衛線へと配置されていく。

 その様子は、ニュルン軍の整然とした行軍とは対照的に、どこか混乱し、浮足立っているように見えた。



 山岳都市ザルツの「白鷲城(しらさぎじょう)」。

 その最も高い塔の一室で、ヒルデガルド伯爵は、暖炉の炎を見つめながら、二つの報告書を静かに読んでいた。

 一つは、南のアルドゥスの動向を記したもの。

 もう一つは、今まさに内乱を起こさんとしているオットーとゲオルグの軍事報告だった。

 彼女の周囲には、熟練の山岳猟兵たちが、音もなく控えている。

「愚かなこと…」

 ヒルデガルドは、深くため息をついた。

 彼女は、最初からこの同盟に乗り気ではなかった。

 セレーネの言葉は甘く、ゲオルグの口車は巧みで、オットーの野心は剥き出しだった。

 だが、そのいずれにも、「信義」や「大義」は存在しなかった。

 ただ、己の利益のためだけに結ばれた同盟が、いかに脆いものであるか。

 彼女は、歴史からそれを学んでいた。

「オットー卿も、ゲオルグ市長も、互いを敵と見ているようです。ですが、本当の敵は、彼らの心に巣食う猜疑心そのもの」

 側近の老将軍が、静かに言った。

「ええ。そして、その猜疑心を巧みに育て上げたのが、セレーナという女。もはや、この者たちに何を言っても無駄でしょう。南では神を名乗る狂人が、西では仲間同士で武器を向け合う愚か者たちがいる。これが、英雄たちが作り上げた世界の、成れの果てというわけですか」

 ヒルデガルドは、窓の外に広がる、月光に照らされた険しい山々を見つめた。

 彼女の民は、この厳しい自然の中で、助け合い、信じ合うことで生き延びてきた。

 彼女には、オットーの野心も、ゲオルグの強欲も、理解できなかった。

「全軍に通達しなさい。ザルツの国境を完全に封鎖。全ての関所を閉ざし、防備を固めるように、と。そして、オットーとゲオルグの両名には、ただ一言、こう伝えなさい。『ザルツは、この茶番には付き合わない』と」

 彼女の決断は、早かった。

 そして、それは、セレーネが作り上げた不安定な同盟に、最後の、そして決定的なとどめを刺す一撃となった。

 セレーネの不在、そしてヒルデガルドの離脱。

 二つの誤算が、オットーとゲオルグの疑念を決定的なものへと変え、もはや後戻りのできない泥沼の睨み合いが、西方の地で始まろうとしていた。

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