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第二十話 偽の手紙

 リューベックの華やかな街並みの下には、もう一つの街が広がっていた。

 下水道だ。

 カイルとリィナは、追っ手の目を逃れ、その迷宮のような暗闇の中に潜伏していた。

 鼻を突く腐臭、絶えず壁を伝う水の滴る音、そして闇の奥で何かが蠢く気配。

 カイルが灯した一つのランタンだけが、彼らの周囲を頼りなく照らしていた。

 リィナは、舞踏会で着ていた優雅なドレスの破れた裾を、苦々しい思いで縫い合わせている。

 その顔は煤で汚れ、美しい髪には汚水が跳ねていた。

 カイルは、壁に背を預け、黙々と暗殺者に負わされた腕の傷の手当てをしていた。

 その目は、闇よりも深く、冷たい光を宿している。

「証拠は手に入った。だが、これを公にしても、ガストンは『王国による捏造だ』と主張するだろう。我々には、それを覆すだけの信用がない」

 カイルは、懐から取り出した黒い手帳を、ランタンの光にかざしながら言った。

 そのページには、ガストンの強欲な筆跡で、セレーネとの黒い繋がりが記されている。

「じゃあ、予定通り…?」

 リィナが不安げに呟く。

 じめじめとした空気が、二人の間に重くのしかかる。

 壁を伝う汚水が、時折ぽたりと音を立てる以外、辺りは静寂に包まれていた。

 その静寂を破ったのは、リィナだった。

「本当に……良かったのでしょうか」

 彼女の声は、暗い水路の中に弱々しく響いた。

「ガストン市長とオットー領主は、確かに私欲のために動いていました。でも、ヒルデガルド伯爵は……彼女は、ただ自分の民を守りたかっただけなのかもしれない。それなのに、私たちの偽りの手紙で、彼女までをもセレーネ様の敵に仕立て上げてしまう……」

「……」

 カイルは答えなかった。

 ただ、前方の暗闇をじっと見つめている。

 彼の横顔は、水路のわずかな明かりに照らされ、いつも以上に硬く、冷たく見えた。

「カイルさん、聞いていますか?」

 リィナは、彼の沈黙に耐えきれず、声を強めた。

「私たちは、正しいことをしているのでしょうか?王都でこの作戦を聞いた時から、ずっと考えていました。今回は、私たちは人の心を欺こうとしている。こんなやり方で得た勝利に、本当に意味があるのでしょうか?」

 その言葉に彼はゆっくりと振り返り、リィナの目を見た。

 その瞳には、非難の色ではなく、純粋な苦悩と悲しみが浮かんでいた。

「リィナ」

 カイルの声は、低く、抑揚がなかった。

「君が正しい。そして、僕が間違っている」

「え……?」

「僕がやっていることは、正義ではない。ただの謀略だ。アルドゥスやセレーネがやっていることと、本質的には何も変わらないのかもしれない」

 彼は自嘲するように、ふっと息を漏らした。

「だが、僕にはこれしか方法が思いつかない。正面からぶつかれば、僕たちだけでなく、僕たちを信じてくれた人々にもっと多くの犠牲が出る。僕は、君やリアム、そして名も知らぬ兵士たちが、これ以上血を流すのを見たくない。だから、僕がこの泥を被る。君がその手を汚す必要はない」

 彼はリィナの肩に手を置いた。

 その手は、冷たかったが、震えてはいなかった。

「僕はもう、引き返せないところまで来てしまった。君が僕のやり方を許せないなら、ここから引き返してもいい。僕一人でやる」

「……嫌です」

 リィナは、首を横に振った。

 彼女の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ち、汚れた頬を伝った。

「一人にはさせません。カイルさんだけを、暗闇の中に残していくなんて、絶対にできません。私も行きます。あなたのやっていることが正しいかなんて、もう分かりません。でも、あなたが一人で苦しむことだけは、間違っていると分かりますから」

 彼女は涙を袖で乱暴に拭うと、カイルの手を強く握り返した。

 その小さな手の温かさが、カイルの凍てついた心に、わずかな光を灯した。

 二人はもう一度、暗闇の先へと歩き始めた。

 その先にあるのが、真実の夜明けか、それともさらなる混沌の闇か、まだ二人にも分からなかった。


 カイルは、王直属の密偵「影雀」が調達してきた、ガストン市長が愛用するものと寸分違わぬ羊皮紙とインクを、濡れていない石の上に広げた。

 そして、黒い手帳を開き、その筆跡をじっと見つめる。

 彼は、ただ文字の形を真似るのではなかった。

 羽ペンの傾き、インクの滲み、文字に込められた力の入り具合。

 まるで、ガストンという男そのものに成り代わるかのように、その傲慢で、計算高い精神を、自らの指先に宿していく。

 ランタンの光だけが揺れる静寂の中、カリカリ、という羽ペンが羊皮紙を引っ掻く音だけが響いた。

 それは、ガストンがニュルン領主オットーを裏切り、ザルツのヒルデガルド女伯爵と密かに手を組んで、同盟の全権を掌握しようと企んでいる、という内容の、完璧な偽の手紙だった。


 ◇


 数日後、リィナは一人、内陸都市ニュルンへと向かう乗り合い馬車に揺られていた。

 彼女は、ワイン商の娘という触れ込みで、質素だが清潔な旅装に身を包んでいる。

 リューベックからニュルンへの旅は、三日を要した。

 沿岸部の華やかで開放的な雰囲気は次第に薄れ、内陸に進むにつれて、風景は険しい岩山と深い森へと変わっていった。

 街道沿いの村々も、リューベックとは違い、どこか武骨で、排他的な空気が漂っている。

 夜盗の噂も絶えない危険な道中だったが、彼女は他の乗客との会話を楽しみ、時には父から教わった護身術で絡んでくる酔っ払いをいなしたりしながら、その旅を乗り越えた。

 彼女の心は、かつてのような恐怖よりも、仲間と世界の未来を背負うという、強い使命感に満たされていた。


 ニュルンの街は、リューベックとは対照的だった。

 城壁は高く、街の至る所に厳つい鎧を着た兵士が立ち、活気よりも、規律と緊張感が支配している。

 オットー領主の、軍事力を重んじる性格が街全体に反映されているようだった。

 リィナの目的地は、城壁の隅にひっそりと佇む、古書の専門店だった。

 店の主こそ、セレーネことセレネ・フォン・ヴァイスフルトを幼い頃に逃した、元家臣の老司書アルブレヒトその人だった。

 リィナは、店に入ると、客を装って古い歴史書を眺め始めた。

 やがて、店の奥から、インクの匂いをまとった小柄な老人が現れる。

 アルブレヒトだった。

「何かお探しかな、お嬢さん」

「東の国の、古い詩集を探しているんです」

 リィナは、カイルから教えられた通りの言葉を口にした。

「雪の中の、白い(はやぶさ)の歌が載っているものを…」

 その言葉に、アルブレヒトの動きが止まった。

「白い隼…」

 それは、滅びたヴァイスフルト公爵家の紋章だった。

 彼は、探るような目でリィナをじっと見つめた。

 リィナは、彼の視線を受け止め、静かに続けた。

「私の祖母が、よく歌ってくれたのです。『翼は折れても、魂は空に』と…」

 それは、ヴァイスフルト家に代々伝わる、秘密の家訓だった。

「…まさか…」

 アルブレヒトの目が見開かれ、みるみるうちに涙で潤んでいく。

「おお…おお…!お嬢様!セレネ様のご親族の方が、まだご存命で…!」

 彼は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。

 リィナは、彼のそばにしゃがみ込み、カイルが偽造した手紙を、そっと彼の震える手に握らせた。

「私は、ある方から、これをニュルン領主オットー様に届けるよう託されました。しかし、追われる身の上です。どうか、ヴァイスフルト家の最後の忠臣として、私の代わりに、この手紙を届けてはいただけないでしょうか。これは、巨悪を暴く、重要な証拠なのです」

 老司書は、リィナの言葉を疑うことなく、涙ながらに何度も頷いた。

 彼にとって、リィナは滅びた主家の最後の希望であり、彼女の言葉は、絶対の真実だった。

「必ずや、このアルブレヒトが、命に代えても…!」


 その日の夕刻、老司書は、その偽りの手紙を、主君であるオットー領主の元へと届けた。

 カイルとリィナが仕掛けた、偽りの同盟を崩壊させるための、最初の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めた瞬間だった。

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