第十九話 仮面舞踏会
リューベック市長ガストンの館は、彼の富と権力を誇示するかのように、眩いばかりの光に満ちていた。
大広間の天井からは巨大な水晶のシャンデリアが吊り下げられ、その光が無数の金銀の装飾品に反射して、目も眩むほどの輝きを放っている。
壁際では楽団が優雅なワルツを奏で、その調べに乗って、色とりどりのドレスや豪奢な軍服に身を包んだ男女が、仮面で素顔を隠しながら踊っていた。
いきいきとした薔薇の香り、高価な香水の匂い、そして上質なワインの芳香が、人々の偽りの笑い声と混じり合っている。
カイルは、人々の輪から少し離れた壁際で、学者風の地味な梟の仮面をつけて、静かにグラスを傾けていた。
彼の視線は、獲物を探す猛禽のように、大広間全体を冷静に観察している。
リィナは、青い鳥の羽飾りがついた美しい仮面をつけ、カイルの指示通り、今夜の主役であるガストン市長の元へと向かった。
彼女の心臓は、緊張で早鐘のように鳴っていた。
「市長閣下、素晴らしい夜ですわね」
リィナは、有力な商人たちに囲まれて上機嫌にワインを飲んでいるガストンに、優雅に一礼して見せた。
彼女の役は、裕福な家の出身で、学者のカイルを家庭教師として雇っている世間知らずな令嬢だ。
「おお、これは美しい小鳥殿。ありがとう。楽しんでくれているかな?」
ガストンは、リィナの若さと美しさに、目を細めた。
「ええ、もちろんですわ。特に、壁に飾られている南方の陶器、素晴らしいですわね!私の先生が、閣下の審美眼は西側諸国随一だと、いつも申しておりましたわ」
リィナの計算されたお世辞に、ガストンは満更でもない様子で口元を綻ばせた。
「はっはっは、君の先生は、実に物事がよく見えているようだ。あれは、私が南の国との新しい交易路を開拓した記念に、特別に焼かせたものなのだよ。エレジア王国のような古い国に頼らずとも、我々には富を築く力がある。その証明だな」
リィナは、ガストンが自慢話に夢中になり、二階へと続く大階段から完全に背を向けたのを確認すると、カイルにだけ分かるように、そっと目配せをした。
その合図を受け、カイルは音もなく群衆に紛れ込んだ。
彼は、談笑する人々の間をすり抜け、給仕が使う裏の通路へと滑り込む。
薄暗い通路の先、衛兵が一人、退屈そうに欠伸をしているのが見えた。
カイルは隠し持っていた銀の匙を取り出すと、通路の反対側へと投げた。
カラン、と響いた金属音に、衛兵が驚いてそちらへ向かう。
その一瞬の隙に、カイルは衛兵の背後を駆け抜け、二階の廊下へと続く階段を駆け上がった。
ガストン市長の書斎は、廊下の最も奥にあった。
カイルは懐から取り出した細い金属製の道具を使い、慣れた手つきで鍵を開ける。
軋む音を立てないよう、ゆっくりと扉を開け、中へと滑り込むと、すぐに鍵を閉めた。
書斎の中は、主の性格を体現していた。
壁一面に、豪華な革装丁の書物が並んでいるが、そのほとんどは背表紙が綺麗なままで、読まれた形跡がない。
壁には高価な海図が飾られ、磨き上げられたマホガニーの机の上には、象牙のレターオープナーや金細工のインク壺がこれ見よがしに置かれていた。
(見せかけだけの知識と、本物の富…。俗物め)
カイルは心の中で吐き捨てると、すぐさま隠し金庫の捜索を始めた。
机の下、絨毯の裏、肖像画の裏…ありきたりな場所には、何もない。
彼の視線が、部屋の隅にある大理石の暖炉に向けられた。
こんな肌寒い夜だというのに、使われた形跡がなく、煤一つない。
カイルは、暖炉の上のマントルピースに施された精巧な彫刻に近づいた。
そこには、リューベックの歴史が描かれていた。
カイルは、ガストンが初めて巨万の富を得たという、伝説の交易船「海の幸号」の彫刻を見つけると、その船首部分を押し込んだ。
カチリ、と小さな音がして、暖炉の内部の煉瓦の一部が、奥へとスライドした。
その奥に、黒光りするダイヤル式の金庫が埋め込まれていた。
カイルは迷わず、船の登録番号をダイヤルで合わせる。
重々しい音と共に、金庫の扉が開いた。
金庫の中には、一冊の黒い手帳が収められていた。
これだ。
カイルが手帳を懐にしまった、その瞬間。
「そこまでよ、ドブネズミさん」
冷たく、しかし鈴の鳴るような声が、書斎の闇から響いた。
振り返ると、そこには、部屋の影そのものが人の形を取ったかのように、漆黒の衣装をまとった一人の女が立っていた。
セレーネの懐刀、「影の舞手」と呼ばれる最高位の暗殺者だった。
その姿を認めるや、カイルは躊躇なく書斎の机を蹴り倒し、暗殺者との間に障害物を作った。
暗殺者は、その動きを嘲笑うかのように、机を軽々と飛び越え、鋭いクナイを閃かせながらカイルに襲いかかる。
書斎の中での、息詰まる攻防。
カイルは本棚から分厚い本を抜き取って盾代わりにするが、暗殺者のクナイは本を容易く切り裂き、彼の腕を浅く傷つける。
(この狭さでは不利だ…!)
カイルは、ガラス窓に向かって全力で身を投げ出した。
凄まじい音と共にガラスが砕け散り、カイルの体は二階のテラスから、下の庭園の植え込みへと落下した。
大広間でガストン市長の相手をしていたリィナは、二階から響いたガラスの破裂音に、心臓が凍りつくのを感じた。
衛兵たちが「何事だ!」「侵入者だ!」と叫びながら、二階へと駆け上がっていく。
(カイルさん…!)
「失礼。少し気分が悪くなってしまいましたわ。夜風に当たってまいります」
リィナは令嬢の演技を続けながら、青ざめた顔でガストンに一礼すると、混乱に乗じてその場を離れた。
彼女はドレスの裾を翻し、衛兵たちの目を盗んで、事前にカイルと確認しておいた館の庭園へと続く通路を探した。
庭園に落下したカイルは、すぐに体勢を立て直したが、全身を強打し、ガラスで切った腕から血が流れていた。
そこへ、影の舞手が猫のようにしなやかな動きで、音もなくテラスから飛び降りてくる。
迷路のような庭園の植え込みの中で、二人の死闘が再開された。
暗殺者の動きは、影から影へと瞬間移動するように見え、常人には捉えることができない。
カイルは徐々に逃げ場を失い、背中を植え込みの壁に追い詰められた。
「終わりね」
暗殺者のクナイが、カイルの喉元めがけて突き出される。
その瞬間だった。
庭園の至る所から、スプリンクラーの水が一斉に噴き出した。
庭園の操作室にたどり着いたリィナが、巨大なバルブを、渾身の力で回したのである。
降り注ぐ水に、影の舞手の動きが一瞬、乱れた。
月光が水飛沫に乱反射し、彼女の術の源である明確な「影」が消え失せる。
その千載一遇の好機を、カイルが見逃すはずがなかった。
彼は、地面を蹴って暗殺者の懐に飛び込み、渾身の力でナイフを突き立てた。
「…女王陛下に…栄光…あれ…」
暗殺者は、最後まで忠誠を口にしながら、影の中へと消えるように崩れ落ちた。
しかし、彼らに休む暇はなかった。
館の警備兵たちが、庭園へと殺到してくる。
二人は、証拠の手帳を固く握りしめ、リューベックの闇の中へと姿を消した。
彼らの正体は、もはやセレーネに知られてしまったのだ。




