第十八話 港湾都市リューベック
エレジア王国の王都から西へ向かう旅路は、これまでの旅とは全く異なる様相を呈していた。
ヴァルガス領のような剥き出しの敵意はない。
だが、街道を行き交う商人たちの眼差しは硬く、宿場町では誰もが口を閉ざしている。
カイルたちが王都からの者だと分かると、あからさまに避けられたり、法外な宿代を請求されたりした。
セレーネが蒔いた不信の種は、すでに深く根を張り始めているのだ。
二週間後、彼らはついに港湾都市リューベックの城門にたどり着いた。
塩の香りと、異国の香辛料の匂いが混じり合った、湿り気のある空気が彼らを迎える。
城壁は王都のものほど高くはないが、海鳥の糞で白く汚れたその姿は、長い歴史と潮風に晒されてきたことを物語っていた。
街に一歩足を踏み入れると、その喧騒と活気にリィナは思わず目を見張った。
石畳の道は掃き清められ、運河には色とりどりの小舟が行き交い、様々なギルドの紋章を掲げた、切妻屋根の背の高い建物が所狭しと立ち並んでいる。
「すごい活気…」
「ああ。だが、この活気は、王国との交易の上に成り立っていたものだ」
カイルは、人々の流れを鋭く観察しながら言った。
「その最大の得意先を敵に回すというのは、商人にとって自殺行為のはず。にもかかわらず、彼らはセレーネに与した。それだけの『利益』を、セレーネが約束したということだ」
一方、リィナは、目の前の光景に奇妙な不協和音を感じていた。
彼女は、カイルに一言断ると、近くのギルドハウスの、古く、滑らかになった石の壁に、そっと手のひらを当てた。
そして、目を閉じ、意識を集中させる。
彼女の耳に聞こえるのは、人々の足音、荷馬車の車輪の音、商人たちの威勢のいい声といった、活気のある音の洪水だった。
だが、彼女の魂が感じ取っていたのは、全く別のものだった。
都市そのものが発する、奇妙な「沈黙」。
石畳の一つ一つが、まるで恐怖に耐えるように、固く、こわばっている。
建物の壁は、何か言いたげな言葉を、必死に飲み込んでいるかのように、冷たく、そして張り詰めている。
人々の立てる陽気な物音は、大地に吸収されず、ただ空虚に表面を滑っていくだけだった。
それは、まるで、歌うことを禁じられた森だった。
鳥たちは、無理やり教え込まれた、偽りの歌を大声で歌っているが、森そのものは、悲鳴を押し殺して、ただ黙り込んでいる。
そんな、歪で、悲しい光景。
「カイルさん」
目を開けたリィナの顔は、青ざめていた。
「嘘です。全部、嘘」
「どういうことだ?」
「この街は、笑っていません。本当は、怯えているんです。石畳が、壁が、そう叫んでいます」
カイルは、リィナの言葉に、ゆっくりと頷いた。
彼の論理的な分析が、彼女の直感的で、しかし絶対的な確証によって、裏付けられたのだ。
「…そうか。やはり、な。ありがとう、リィナ。これで確信が持てた。我々は、美しい、完璧に作り上げられた嘘の心臓部へと、足を踏み入れたわけだ」
二人は、改めて周囲を見渡した。
活気に満ちた街並みは、今や、巧妙に飾り付けられた、巨大な罠のように見えた。
二人がまず向かったのは、港を見下ろす高台にある宿屋だった。
部屋の窓からは、無数のマストが林立する広大な港と、その向こうに広がる灰色の海が一望できた。
カモメの甲高い鳴き声と、船の出入りを知らせる鐘の音が絶え間なく聞こえてくる。
カイルは学者、リィナはその助手という触れ込みで、街への潜入と、情報収集を開始した。
翌日、リィナは早速、街で一番大きな中央市場へと向かった。
色とりどりの天幕が並び、威勢のいい呼び声が飛び交っている。
南方の果物を売る店、北方の毛皮を扱う店、ドワーフの工芸品を並べる店。
人々の熱気と、様々な品物の匂いが混じり合い、むせ返るようだ。
彼女はまず、魚を売る威勢のいい女将の店で、夕食用の塩漬けニシンを数匹買った。
「おや、お嬢ちゃん、見かけない顔だね。旅の人かい?」
女将は、手際よく魚を紙で包みながら尋ねた。
「ええ、先生のお供で、しばらくこの街に滞在するんです。それにしても、すごい人ですね!私の故郷も賑やかですけど、比べ物にならないくらい」
「ふん、これでも人は減った方さ」
女将は、少しだけ声を潜めた。
「エレジア王国とのいざこざが始まってから、東からの船がめっきり来なくなっちまってね。おかげで、あそこの布問屋の旦那なんて、顔面蒼白だよ」
女将が顎で示した先では、一人の恰幅のいい商人が、ため息をつきながら帳簿を眺めている。
「市長様は、南の国との新しい交易路が開けるから心配ない、なんて言ってるけどね。長年付き合ってきた相手を、そう易々と変えられるもんかねぇ」
女将は、それ以上は言えないとばかりに、リィナに魚を手渡した。
次にリィナは、パン屋の行列に並んだ。
焼きたてのパンの香ばしい匂いが、彼女の故郷の朝を思い出させる。
列の前の主婦たちが、井戸端会議に花を咲かせていた。
「聞いた奥さん?一昨日、ギルド長のダヴィンさんの船が、港の入り口で座礁したんですって」
「まあ、あの方は市長様のやり方に反対していたっていう…」
「ええ。それで、市長様に『王国のスパイと内通しているのではないか』なんて、あらぬ疑いをかけられていた矢先よ。不運な事故、ということになっているけど、どうだかねぇ。セレーネ様が来てから、こういう不審な事故が多すぎるわ」
「まあ、怖い!お黙りなさい、誰が聞いているか分からないわよ。『影の目』は、どこにでもいるっていうじゃない」
主婦たちは、そう言って慌てて口をつぐみ、周囲を警戒するように見回した。
リィナは、彼女たちの会話をさりげなく手帳に書き留めながら、自分の番が来るのを待った。
一方、カイルは市の中心部から少し離れた、古びた市立図書館を訪れていた。
運河沿いにひっそりと佇むその建物は、リューベックの他の建物とは違い、装飾もなく、ただ知識を守るためだけに建てられたかのような、重々しい雰囲気を漂わせている。
高い天井まで届く書架には、びっしりと革装丁の古文書が並び、黴と古い羊皮紙、そして乾燥したインクの匂いが、静寂と共に空気を満たしていた。
差し込む光の筋の中を、無数の埃がゆっくりと舞っている。
まるで、忘れ去られた時間の澱のようだ。
カイルは受付にいた年配の司書に許可証を見せると、閲覧室の奥、都市の歴史や有力者の家系図が収められた区画へと向かった。
彼は、何時間も、ただ黙々と羊皮紙の巻物を解き、書物のページをめくり続けた。
三国同盟の成立史、各都市の法律、そして指導者一族の、公にはされていない醜聞や財産に関する記録。
彼の鳶色の瞳が、膨大な文字の海から、真実の欠片を一つ、また一つと拾い上げていく。
それは、彼が孤児院の書庫で、自分の過去を探し求めていた頃から、何も変わらない、彼にとって最も得意とする戦い方だった。
夕刻、宿屋に戻ったカイルとリィナは、それぞれが集めた情報をテーブルの上に広げた。
「ガストン市長は、代々続く名家だが、彼の代でいくつかの交易に失敗し、多額の負債を抱えていたようだ。セレーネは、その負債を肩代わりする代わりに、同盟への参加を約束させたと」
カイルが、ある貴族の家系図を指差しながら言った。
「ニュルンのオットー領主は、もっと単純だ。彼は野心家で、自らの軍事力を拡大するためなら、悪魔にでも魂を売る男だ」
「セレーネは、彼にドワーフの技術を応用した最新の兵器の設計図を渡した、と市場の噂で聞きました」
リィナが付け加える。
「問題は、ザルツのヒルデガルド伯爵だ」
カイルは、西方諸国の地図に数点の印をつけながら言った。
「彼女は敬虔で、アルドゥスが神を僭称していることを快く思っていない。同盟にも、ガストンとオットーに押し切られる形で、不本意ながら参加したようだ。彼女こそが、我々が王都で立てた計画を成功させるための鍵になる」
「では、そのヒルデガルドさんに接触すれば…」
リィナが期待を込めて言う。
「いや、駄目だ」
カイルは首を横に振った。
「我々が接触したと知れれば、セレーネは即座に彼女を排除するだろう。やはり、王都で決めた通り、偽りの情報で彼らの信頼関係を内部から破壊するしかない。そして、今日集めた情報で、そのための具体的な筋道が見えた。ガストン市長の筆跡を真似て、彼がヒルデガルドと手を組み、オットーを裏切ろうとしている、という偽の密書を作成する。それこそが、最も効果的だ」
「偽りの密書……」
リィナの声に、隠せない痛みの色が滲んだ。
「やはり、その方法しかないのでしょうか。人を騙すようなやり方は、セレーネ様と同じではないですか…?」
カイルは、リィナの揺れる瞳を真っ直ぐに見つめた。
「同じではない。我々は、誰かを支配するためではなく、偽りの支配から人々を解放するために嘘をつく。目的が違えば、手段の意味も変わる。この汚れ仕事は、僕がやる」
その言葉は、リィナを納得させるには十分ではなかったかもしれない。
しかし、彼の瞳の奥にある、揺るぎない覚悟と、彼女への気遣いを、リィナは感じ取っていた。
その夜、リューベック市長ガストンが主催する、三国同盟の結束を祝う仮面舞踏会が、彼の豪奢な館で開かれることになっていた。
それは、セレーネの協力者たちが一堂に会する、絶好の機会だった。
二人は、これから始まるであろう謀略の夜に向けて、静かに準備を始めた。




