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誰が英雄を殺したか — 竜殺しの英雄 —   作者: 神凪 浩
第二章 軍神の鉄槌
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第十六話 悲しき鉄槌

 ヴァルガスの一撃は、大地を揺るがし、天を裂くほどの気迫に満ちていた。

 だが、その一撃が振り下ろされることはなかった。

 彼の背後から、「疾風」の名に恥じぬ神速で音もなく現れたリアムの剣が、鎧の隙間から、彼の首筋を深く切り裂いていたのだ。

「…が…はっ…」

 ヴァルガスは、信じられないというように、ゆっくりと振り返った。

 彼の瞳から、憎悪の炎が消え、ただ、穏やかな光が宿っていく。

「…ああ…、サラ…、ニーナ…、やっと…会えるのか…」

 彼は、愛する家族の名を呟きながら、ゆっくりと大地に崩れ落ちた。

 巨大な戦斧が、ゴォン、という悲しく、そして重い音を立てて床に転がった。

 玉座の間に、静寂が訪れた。

 リアムは血振るいもせず、ただ静かに剣を鞘に納める。

 そして、かつての友の亡骸を、言葉もなく見つめていた。

 リィナは、そのあまりに悲しい決着に、ただ涙を流すことしかできなかった。

 その時だった。

 城全体を支配していた、絶え間ない槌の音と兵士たちの怒号が、まるで幻であったかのように、ふっつりと途絶えたのは。

「…何が起きた?」

 リアムが訝しげに呟き、カイルはすぐさま窓辺に駆け寄った。

 眼下に広がるアイアンフォートの城下町の光景は、異様の一言に尽きた。

 先ほどまで整然と隊列を組み、訓練に励んでいた兵士たちが、皆一様に動きを止め、呆然と立ち尽くしている。

 ある者は、持っていた武器を地面に落とし、ある者は、激しい頭痛に耐えるかのように頭を抱えてうずくまり、またある者は、隣にいる戦友の顔を、まるで初めて見るかのように不思議そうに見つめていた。

「…アルドゥスの術が解けたのか」

 カイルは分析した。

「兵士たちを狂信させていた魔術は、術の媒体であり、力の源でもあったヴァルガスの生命力に直結していたんだろう。彼が死んだことで、その繋がりが断ち切られたんだ」


 その現象は、アイアンフォートだけではなかった。遠く離れた「嘆きの川」の戦線でも、同じ混乱が起きていた。

 ストーンハート軍の兵士たちは、対岸のヴァルガス軍が突然、統率を失ったことに困惑していた。

 敵兵たちは、互いにいがみ合いを始めたり、意味もなく叫び声を上げながら川に飛び込んだり、あるいは家族の名を呼びながら泣き崩れたりしている。

 それはもはや、軍隊ではなかった。

「一体、何が…?罠か…?」

 防衛線の指揮官が、双眼鏡を構えながら訝しんでいると、長年の戦場での経験が、彼の脳裏にある一つの、しかし確信に満ちた答えを導き出した。

 これほどまでの完全な統率の崩壊は、単なる作戦の失敗では起こりえない。

 ヴァルガスという、狂信的なカリスマによってのみ成り立っていた軍隊が、その求心力を完全に失ったのだ。

 その原因は、一つしかありえない。

 指揮官は双眼鏡を下ろし、天を仰いだ。

 そして、隣にいる伝令兵に、静かに、しかし揺るぎない声で告げた。

「全軍に通達。戦闘を直ちに終了せよ。もはや戦う理由はない」

 彼は、対岸で繰り広げられる崩壊の光景を睨みつけ、自らの推察を部下たちへの宣言へと変えた。

「我らが英雄たちは、敵の心臓を貫いた。奴らの『神』は死んだのだ」


 カイルは、玉座の間からヴァルガスの巨大な戦斧「竜殺し」を運び出すと、リアムに言った。

「リアムさん、決着を付ける時です。彼らの『神』が、もういないということを、全ての者にはっきりと示さなければならない」

 リアムは黙って頷くと、その巨大な戦斧を担ぎ上げ、玉座の間のバルコニーへと向かった。

 リアムが、アイアンフォートで最も高いそのバルコニーに立ち、ヴァルガスの象徴であった「竜殺し」を天に掲げた。

 魔法の心得があるカイルが、その姿に集光の術をかけ、巨大な幻影として城下の兵士たちに見せつける。

「聞け!ヴァルガス軍の兵士たちよ!」

 リアムの声が、魔術によって増幅され、雷鳴のように響き渡った。

「軍神ヴァルガスは、今、我らが討ち取った!彼が掲げた偽りの正義は終わった!これ以上の無益な争いは無意味だ!武器を捨て、家族の待つ故郷へ帰れ!」

 その光景と声が、最後の引き金となった。

 神の死という、絶対的な現実を突きつけられた兵士たちは、完全に崩壊した。

 紫煙の薬の効果が完全に切れ、激しい禁断症状に襲われた者たちは、次々と地に倒れ伏す。

 自分たちが犯してきた残虐行為の記憶が断片的に蘇り、嘔吐する者。

 全てを失ったことを悟り、虚ろな目で自らの喉を掻き(むし)る者。

 ただひたすらに、妻や子の名を呼びながら泣き叫ぶ者。

 指揮官たちは、その混乱を収拾しようとするが、もはや彼らの声に耳を貸す者はいなかった。

 ヴァルガスという、たった一つの狂信的なカリスマによってのみ成り立っていた軍隊は、その求心力を失い、脆くも砕け散ったのだ。

 兵士たちは、それぞれの絶望と後悔を抱えながら、あるいは故郷を目指し、あるいは当てもなく荒野へと、三々五々に逃げ出していく。

 それは、軍の敗走というよりは、一つの巨大な悪夢から人々が目覚めていくような、静かで、そして途方もなく悲しい崩壊の光景だった。

 「軍神」の死により、彼の軍は統率を失い、こうして完全に霧散した。


 アイアンフォートの調査を進める中で、カイルたちは、ヴァルガスの私室から、一通の古い手紙を見つけた。

 それは、賢者アルドゥスからヴァルガスに宛てられたものだった。

『…竜の力を利用すれば、死者蘇生も不可能ではない。君の家族を取り戻したくば、我々に協力することだ…』

「これが…彼を狂わせた元凶か」

 ヴァルガスは、ただの復讐鬼ではなかった。

 彼は、アルドゥスの甘言に騙され、家族を取り戻すという叶わぬ希望のために、戦い続けていたのだ。


 数週間後、ストーンハート領に戻った三人を、領民たちは英雄として迎えた。

 勝利の歓声が響き渡り、解放された安堵に誰もが涙を流した。

 しかし、その熱狂の中心にいる三人の表情は晴れなかった。

 英雄としての賞賛は、彼らが払った犠牲の重さを、少しも軽くはしてくれなかったのだ。


 ある日の夕暮れ、リアムは一人、町の酒場の隅でエールを呷りながら、今は亡き友ヴァルガスの冥福を静かに祈っていた。

 同じ頃、カイルとリィナは二人で、かつてヴァルガス軍との最初の激戦が繰り広げられた「嘆きの川」のほとりに立っていた。

 数週間前まで血で赤く染まっていた川は、今やその清さを取り戻し、夕日を反射して静かにきらめいている。

 岸辺には、戦いの爪痕として折れた矢や錆びついた剣の残骸がまだ泥に埋もれていたが、その隙間からは、新しい草の芽が力強く顔を覗かせていた。

 二人は、名もなき兵士たちのために立てられた簡素な石碑の前に、一輪の野の花を供えた。

「ヴァルガスの狂気は止めた。だが、そのために俺たちは彼の兵士たちを殺し、彼の地を焼いた」

 カイルは、穏やかな川の流れを見つめながら、ぽつりと言った。

 その声には、英雄への賛辞とは裏腹の、重い自責の念が滲んでいた。

「この川に染み付いた血を見るたびに思うんだ。俺たちは、ひとつの憎しみを終わらせる代わりに、ただ新しい憎しみをこの地に刻みつけただけなのではないかと」

「いいえ」

 リィナは、彼の言葉を静かに否定した。

 その横顔は、戦場と野戦病院の地獄をくぐり抜けてきた者だけが持つ、強さと優しさを湛えていた。

「私たちは、悲劇の連鎖を断ち切るために、戦ったんです。その先に、本当の平和があると信じて」

 その時だった。彼らの背後から、馬の蹄の音が慌ただしく近づいてきた。

 王都からの急使が、息を切らしながら馬から転がり落ち、新たな報せをもたらした。

「賢者アルドゥスが、南方諸国を魔力で支配下に置き、自らを『新世界の神』と名乗り、王家に宣戦布告!また、『影の手』セレーネは、西方の三国同盟と手を組み、王国への侵攻を準備中とのことです!」

 ヴァルガスの死は、終わりではなく、新たな戦乱の始まりに過ぎなかった。今度は南と西から、知略と謀略の嵐が迫る。

「…休んでいる暇は、なさそうだな」

 カイルは、南と西の空を交互に見つめながら、静かに言った。

 リィナも、彼の隣で覚悟を決めたように頷く。

 二人は言葉を交わすことなく、自分たちの馬へと向かって歩き出した。

 嘆きの川のほとりに落ちる二人の影は、次なる戦場へと続く道のように、長く伸びていた。

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