第十五話 軍神との対峙
アイアンフォートの最上階、ヴァルガスの玉座の間は、彼の精神を体現したかのような、武骨で殺風景な場所だった。
磨き上げられているはずの大理石の床は、無数の傷跡で覆われ、壁には彼が討ち取ったとされる竜や強力な魔獣の頭蓋骨が、虚ろな眼窩を玉座に向けて飾られている。
その中央に、巨大な黒鉄の玉座が鎮座し、部屋全体に冷たい圧を放っていた。
その圧の中心に、「軍神」ヴァルガスは座っていた。
「…来たか、リアム。そして、世界の理を捻じ曲げた者どもよ」
ヴァルガスはゆっくりと立ち上がった。
その巨体は山のように大きく、その瞳には、竜への消えることのない憎悪の炎が燃え盛っていた。
彼は、玉座の横に立てかけてあった、人の身の丈ほどもある巨大な戦斧「竜殺し」を、軽々とその手に取った。
部屋の空気が、彼の闘気によって震え、重くなる。
「貴様らの戯言に付き合う気はない」
ヴァルガスは、地響きのような声で言った。
「王都の甘言も、竜の誘惑も、この俺には届かん。俺は、俺の正義を、この鉄槌で執行するだけだ。力こそが秩序を生み、憎しみこそが明日への道標となる。貴様らのような弱者が作り出す、脆く、偽善に満ちた平和など、俺が根こそぎ破壊してやる」
「ヴァルガス!目を覚ませ!」
リアムが叫んだ。
その声は、怒りよりも悲しみに満ちていた。
「お前の憎しみは、他の英雄たちに利用されているだけだ!お前が作っているのは秩序じゃない、ただの恐怖だ!このままでは、世界が滅ぶぞ!」
「黙れ、裏切り者!」
ヴァルガスは咆哮した。
「俺は、妻を、娘を、この手で瓦礫の中から掘り出したのだ!竜の炎に焼かれ、炭になった二人を!その悲しみが、その絶望が、貴様のような裏切り者に分かってたまるか!」
ヴァルガスの巨体が、床を蹴った。
人間業とは思えぬ速度で三人に迫り、大上段に構えた戦斧を一直線に振るう。
轟音と共に、戦斧は三人がいた場所の床を粉砕し、大理石の破片が弾丸のように飛び散った。
三人は辛うじてそれを避けるが、頬を掠めた風圧だけで肌が切れそうだった。
「散開しろ!」
カイルの指示で三人は距離を取る。
リアムがヴァルガスの正面に立ち、カイルとリィナは柱の影を縫うようにして側面へと回り込んだ。
「小賢しい!」
ヴァルガスの次なる一撃は、リアムめがけて横薙ぎに振り下ろされた。
リアムは白銀の剣を交差させてそれを受け止める。
キィン、という甲高い金属音が鼓膜を突き刺し、凄まじい衝撃がリアムの両腕を駆け巡った。
腕の骨が軋み、膝が折れそうになる。
疾風の剣技をもってしても、軍神の純粋なパワーはあまりに規格外だった。
「どうしたリアム!その程度か!お前の剣は、平和な世で錆びついてしまったようだな!」
ヴァルガスはリアムを力で押し込みながら、さらに戦斧に力を込める。
ミシミシと、リアムの白銀の剣が悲鳴を上げた。
一歩、また一歩と後退させられる。
このままでは押し切られるのは時間の問題だった。
「リアムさんから気を逸らす!」
カイルが柱の影から数本のナイフを投擲する。
ナイフはヴァルガスの分厚い鎧に弾かれ、火花を散らして虚しく床に転がるが、その金属音が彼の注意をわずかに逸らした。
その隙に、リアムは後方へ大きく跳躍し、間合いを取り直す。
「カイルさん、彼の左足!」
リィナが、ヴァルガスの動きを食い入るように見つめながら叫んだ。
「古い傷があります!大技のあと、体重をかける時に動きが僅かに鈍い!」
彼女の瞳は、恐怖に揺れながらも、戦場の些細な変化を見逃さなかった。
「分かった!」
カイルは、冷静に戦況を分析する。
「だが、どうやってあの鉄壁の守りを崩すか…」
ヴァルガスの猛攻は休まることを知らなかった。
戦斧が振るわれるたびに、玉座の間は破壊されていく。
砕けた柱が倒れ、壁の竜の頭蓋骨が床に落ちて砕け散った。
リアムは防戦一方で、カイルとリィナも迂闊に近づくことができない。
このままではジリ貧だ。カイルの脳裏に、最悪の結末がよぎった。
「私が隙を作ります!」
リィナは覚悟を決めると、柱の影から飛び出し、ヴァルガスの死角へと走り込んだ。
彼女の手には、父から譲られた護身用の短剣が、頼りなく握られている。
「小娘が!」
ヴァルガスはリィナに気づき、その巨大な戦斧を、虫けらを払うかのように彼女めがけて振り下ろそうとする。
しかし、それは彼女の狙い通りだった。
巨体をひねったことで、彼の古傷がある左足が、一瞬だけ無防備に晒される。
「リアムさん!」
「もらった!」
リアムは、床を蹴って矢のような速さで踏み込み、その白銀の剣を、ヴァルガスの左足へと閃かせた。
剣は鎧の僅かな隙間を正確に捉え、深く突き刺さる。
「ぐおおおっ!」
さすがのヴァルガスも、古傷を的確に攻められ、大地に片膝をついた。
その巨体が、初めて大きく揺らぐ。
「終わりだ、ヴァルガス!」
リアムの剣が、ヴァルガスの心臓めがけて突き込まれようとした、その瞬間。
ヴァルガスは、信じられないほどの力で、地に突き立てた戦斧の柄を蹴り上げた。回転した戦斧がリアムの体を強かに打ち、彼を壁まで吹き飛ばした。
リアムは壁に叩きつけられ、口から血を流しながら崩れ落ちる。
「まだだ…!俺は、軍神ヴァルガスだ!」
彼は、血を流しながらも、再び戦斧を構える。
その姿は、まさに鬼神だった。
だが、彼の瞳の奥に、一瞬だけ、深い悲しみの色がよぎったのを、カイルは見逃さなかった。
「ヴァルガス!」
カイルは叫んだ。
それは、ただの挑発ではない。真実を抉り出す、鋭利な刃のような言葉だった。
「その傷を押してまで戦うのか!アルドゥスに何を約束された!?死んだ家族を蘇らせるとでも言われたか!?その甘言を信じ、お前は友を殺し、民を狂わせ、世界を滅ぼす化け物に成り下がった!お前が瓦礫の中から掘り出したのは、お前の家族の亡骸だけではない!お前自身の心だ!今のその姿を、お前の妻が、娘が見たら、果たして喜ぶとでも思うのか!?」
その言葉は、ヴァルガスの心を、確かに揺さぶった。
彼の脳裏に、優しかった妻の笑顔と、無邪気にはしゃぐ娘の姿が、鮮明に蘇る。
『あなた、無茶はしないでくださいね』
『お父さん、だーいすき!』
守りたかったもの。
取り戻したかった、温かい日々。
「う…うるさい…」
ヴァルガスの動きが、完全に止まった。
憎悪に燃えていた瞳から力が抜け、焦点が合わなくなる。
握りしめられた戦斧が、わずかに緩んだ。
「黙れえええええっ!」
心の迷いを振り払うように、ヴァルガスは、天に向かって戦斧を大きく振りかぶった。
だが、その一撃は、誰に向けられるでもなく、ただ虚空を斬ろうとする、魂の絶叫でしかなかった。
その隙は、ほんの一瞬。
しかし、仲間を信じる者たちにとっては、十分すぎる時間だった。




