第十四話 アイアンフォートの心臓
鉱山の奥深くで轟いた爆音は、彼らが犯した反逆行為の狼煙となった。
崩落する坑道から命からがら脱出した三人を待っていたのは、地鳴りのような警鐘と、山全体に響き渡るヴァルガス軍の怒号だった。
「こっちだ、急げ!」
カイルは、ゲオルグとの戦いで深手を負ったリアムの肩を担ぎ、リィナとともに、獣道を転がるように駆け下りた。
背後からは、何百もの松明の光が、巨大な百足のように山肌をうねりながら迫ってくる。
「くそっ…少し、休ませてくれ…」
リアムの額には脂汗が浮かび、息が荒い。
脇腹から流れる血は、応急処置の包帯を赤黒く染め上げていた。
「駄目です、今休んだら追いつかれる!」
カイルは冷静に、しかし有無を言わせぬ口調でリアムを叱咤し、さらに先へと進む。
彼らは夜通し歩き続け、夜が白み始める頃、ようやく川沿いの深い藪に隠された小さな洞窟に身を滑り込ませた。
洞窟の中は、湿った土と苔の匂いがした。
リアムはその場に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。
リィナはすぐに彼のそばに駆け寄ると、震える手で血に染まった包帯を解いた。
「ひどい…傷口が開いている…」
ゲオルグの戦斧が掠めた脇腹の傷は、リィナが想像していたよりもずっと深く、熱を帯びていた。
このままでは、破傷風か敗血症を起こしかねない。
「カイルさん、火を。傷口を焼きます。それと、何か解熱効果のある薬草を探してきてください。この辺りなら、ギザ葉のリュウゼツランがあるはず…」
リィナの口調は、もはやただの新米捜査官のものではなかった。
極限状況で仲間を救おうとする、一人の衛生兵のそれだった。
カイルは黙って頷くと、乾いた枝を集めて火を起こし、そしてすぐに洞窟の外の闇へと消えた。
リアムは、苦痛に顔を歪めながらも、リィナに弱々しく笑いかけた。
「…すまんな、足手まといで」
「謝らないでください!」リィナは、涙を堪えながら叫んだ。
「リアムさんが戦ってくれたから、私たちは今、ここにいるんですから!」
彼女は熱したナイフを、リアムの傷口に押し当てた。肉の焼けるおぞましい音と、リアムの歯を食いしばる呻き声が、狭い洞窟に響いた。
それから四日間、彼らはその洞窟に潜伏した。
カイルが周囲を警戒し、リィナは不眠不休でリアムを看病した。
リアムは高熱にうなされ、時折、彼が斬ってきた敵の名前や、ガレスの名を呼んだ。
カイルは、近くの小川で魚を獲り、リィナは、薬草を煎じてリアムに与えた。
三人の間には、ほとんど会話はなかった。
だが、その沈黙の中には、言葉以上に雄弁な、互いを気遣う思いと、過酷な運命を共にする者だけが分かち合える、静かな絆が満ちていた。
四日目の朝、リアムの熱がようやく引き始めた。
「…どうやら、地獄の番人にはまだ気に入られなかったらしい」
リアムは、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ええ、本当に」
リィナは、心からの安堵に泣き笑いのような表情になった。
「追っ手は、まだ引いていない」
カイルは、洞窟の入り口から外の様子を窺いながら言った。
「捜索範囲を広げている。そろそろここも危ない。動けますか?」
リアムは、ゆっくりと、しかし確かな力で身を起こした。
「ああ。この程度でへばっていては英雄の名が泣く」
そこからの旅は、まさしく逃避行だった。
ヴァルガス領の中心部へと向かう道は、荒涼とした岩と砂利の大地がどこまでも続いていた。
彼らは追跡を避けるため、昼は岩陰や洞窟に隠れ、夜の闇に紛れて移動した。
上空を旋回する魔獣の影に、何度肝を冷やしたか分からない。
カイルは、偽の足跡を残したり、川の流れを利用して匂いを消したりと、持てる知識のすべてを駆使して追跡を撹乱した。
旅の途中、彼らはこの土地の歪みを改めて目の当たりにした。
街道の脇には、鉱山爆破の「裏切り者」として、見せしめに処刑された囚人たちの亡骸が晒されている。
ある村では、領民たちが自ら武装し、狂信的な目で「神の敵」を探し回っていた。
「見つけたぞ!ストーンハートのスパイだ!」
一度、彼らは農夫の姿をした捜索隊に見つかり、絶体絶命の窮地に陥った。
リアムはまだ万全ではなく、三人は疲労困憊だった。
だが、その時、彼らを救ったのは、リィナの機転だった。
彼女は、この土地の石が鉱物を多く含んでいることを思い出し、近くにあった硫黄分の強い鉱石を松明の火に投げ込んだ。
立ち上った強い刺激の煙に捜索隊が怯んだ隙に、三人はその場を脱出したのだ。
食料は尽きかけ、水は鉄の味がした。
リアムの傷は癒えたが、全員の体力は限界に近かった。
それでも彼らは、足を止めなかった。
潜入から三週間が過ぎた、ある日の夕暮れ。
風が吹き抜ける丘の上に立った三人は、地平線の彼方に、巨大な黒い影がそびえ立っているのを視認した。
それは、山の斜面を削って築かれた、黒鉄の塊のような巨大な城塞。天を突くほどの威圧感を放つ、ヴァルガスの本拠地。
「…アイアンフォート…」
リアムが、乾いた唇で呟いた。
長かった逃避行の終わり。
そして、本当の戦いの始まりだった。
三人の顔に安堵の色はなく、ただ、これから始まるであろう決戦への、静かで、しかし鋼のように固い覚悟が浮かんでいた。
三人は、ついにヴァルガスの本拠地である巨大要塞「アイアンフォート」の麓に到達した。
黒い鉄の塊のようなその城塞は、天を突くほど高くそびえ立ち、見る者を圧倒する威圧感を放っていた。
「正面からの突破は不可能だ」
カイルは、グリムロックから入手した要塞の設計図を広げながら言った。
「だが、グリムロックの情報によれば、この要塞には一つだけ、設計上の盲点がある。それは、要塞の熱源である大溶鉱炉に繋がる、古い排熱口だ。そこからなら、内部に侵入できる可能性がある」
三人は、崖に穿たれた排熱口から、灼熱の通路を通り、要塞の心臓部である大溶鉱炉へと潜入した。
大溶鉱炉のある広間は、地獄を具現化したかのような光景だった。
絶え間なく響く金属音、肌を焼くほどの熱気、そして硫黄と汗の混じったむせ返るような空気。
何百人もの鍛冶師たちが、まるで魂を抜かれた人形のように、一心不乱に槌を振り続けている。
その中央の壇上で、ヴァルガス配下の幹部の紅一点、「灼熱」のブリュンヒルデが、炎を宿した赤黒い鞭を振るいながら、鍛冶師たちを監督していた。
「もっと鉄を!もっと武器を!我らが軍神の御名の下に、全ての竜と裏切り者を滅ぼすのだ!怠ける者は、この灼熱の鞭の錆となるがいい!」
彼女の狂信的な声が、槌の音と共に響き渡る。
「あの女を止めなければ」
三人は、溶鉱炉の熱と蒸気に紛れて、ブリュンヒルデに近づく。
しかし、彼女は獣のような鋭い感覚で、侵入者の気配を察知した。
「ネズミが入り込んだようだな!このブリュンヒルデが、貴様らを鉄の棺に叩き込んでやる!」
彼女が握る赤黒い鞭が、生きているかのようにうねり、先端から灼熱の炎を噴き上げた。
溶鉱炉の熱気と相まって、周囲の空気そのものが燃え上がり、三人の肌を焦がす。
「下がっていろ!」
リアムが前に出て剣を構える。
ブリュンヒルデの鞭が、甲高い音と共に空気を裂き、炎の蛇となって襲いかかった。
リアムはそれを剣で弾くが、衝突の瞬間に凄まじい熱が刀身を伝い、彼の白銀の剣がみるみるうちに赤熱していく。
「ぐっ…!」
熱せられた柄を握るリアムの手に激痛が走る。
ブリュンヒルデは一撃ではリアムの剣を無力化できないことを悟ると、笑みを深め、鞭を縦横無尽に振るい始めた。
炎の鞭は時に壁となり、時に槍となり、リアムに接近する隙を与えない。
彼の「疾風」の剣技も、この灼熱の結界の前では活路を見出せずにいた。
「援護します!」
リアムが防戦一方になったのを見て、カイルが柱の影から数本の投げナイフを放った。
しかし、ナイフはブリュンヒルデに届く前に、彼女が纏う熱のオーラによって軌道を曲げられ、溶けて歪んだ鉄塊となって虚しく床に落ちる。
「小賢しい真似を!」
ブリュンヒルデの鞭の先端が、今度はカイルが隠れる柱めがけて伸びる。
柱は瞬時に赤熱し、一部が溶け落ちた。
「カイル、この鞭は厄介だ!何か手は!?」
リアムが叫びながら、鞭の猛攻を必死に凌ぐ。
カイルは冷静に周囲を見渡した。
この圧倒的な熱量を打ち破るには、それ以上のエネルギーをぶつけるしかない。
彼の視線が、溶鉱炉の各所に設置された冷却用の巨大な圧力弁に留まった。
「蒸気だ!」カイルが叫んだ。
「リィナ、あそこの冷却用の圧力弁を!」
ブリュンヒルデは、カイルの言葉を聞いて嘲笑うように言った。
「小賢しい知恵だな、裏切り者ども!だが、この聖なる炎の前では無力だ!」
彼女は鞭を振るいながら、恍惚とした表情で叫んだ。
「お前たちには分からないだろう!かつて王都が疫病と内乱で腐っていた時、食う物もなく、親に売られ、路地裏で死にかけていた私を救ってくださったのが、ヴァルガス様なのだ!あの方の力と鉄の規律だけが、この腐った世界に秩序をもたらす!あの方の炎こそが、この世界を浄化する聖なる炎なのだ!」
リィナは、彼女の悲痛な過去の叫びに一瞬ためらいながらも、父から譲られた短剣で、弁を固定しているロープを切り裂いた。
「危ない!」
ブリュンヒルデの鞭が、リィナに迫る。
だが、それよりも一瞬早く、カイルが投げたナイフが鞭の軌道を逸らした。
直後、凄まじい轟音と共に、高圧の蒸気が噴出し、ブリュンヒルデを飲み込んだ。
「やったか…?!」
だが、蒸気が晴れた後、そこに立っていたのは、全身に火傷を負いながらも、狂気じみた笑みを浮かべるブリュンヒルデの姿だった。
「素晴らしい熱だ…!この痛みこそ、私がヴァルガス様に捧げる忠誠の証…!」
彼女は、戦化粧の崩れた顔を憎悪に歪ませ、リィナに狙いを定めた。
「よくも…よくもやってくれたな、小娘!」
しかし、彼女が動くより早く、背後から忍び寄っていたリアムの剣が、その背中を静かに貫いていた。
「…なぜ…私の炎が…」
ブリュンヒルデは、信じられないというように呟き、崩れ落ちた。
彼女が倒れるのとほぼ同時に、溶鉱炉全体が悲鳴のような金属音を上げた。
リィナが引き起こした水蒸気の噴出は、ブリュンヒルデを打ちのめしただけではなかったのだ。
超高圧の蒸気は、溶鉱炉の心臓部である巨大な送風管を歪ませ、動力伝達を担う歯車の噛み合わせを狂わせてしまったのである。。
ゴオオオという地鳴りのような轟音が次第に力を失い、炉の炎が勢いを失って赤黒い燻りへと変わっていく。
その狂気的なリズムが途絶えたことで、魂を抜かれた人形のようだった鍛冶師たちの動きが、一人、また一人と止まっていく。
彼らは呆然と顔を上げ、手にした槌をカランと落とし、自分がどこにいるのか、何をしていたのかさえ思い出せないかのように、虚ろな目で周囲を見回した。
アイアンフォートの心臓部である大溶鉱炉の機能は停止し、要塞は混乱に陥った。
三人は、その混乱に乗じて、要塞の最上階、ヴァルガスの玉座の間を目指した。




