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誰が英雄を殺したか — 竜殺しの英雄 —   作者: 神凪 浩
第二章 軍神の鉄槌
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第十三話 煤煙の国

 嘆きの川を密かに渡り終え、三人はついにヴァルガス領の乾いた土の上に、その第一歩を踏み入れた。

 その瞬間だった。

「うっ…!」

 リィナが、短い呻き声を上げて、その場に膝をついた。

 その顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。

「リィナ、どうした!?」

 リアムが、驚いて彼女の肩を支える。

 毒か、あるいは呪いの類かと、彼の表情が険しくなった。

「…いえ、大丈夫です。ですが…」

 リィナは、地面に手をつきながら、震える声で言った。

「大地が…痛がってる…。ずっと、叫んでるんです…。頭の中に、直接、痛みが響いてきて…」

 彼女にとって、この土地はただ荒涼としているだけではなかった。

 それは、全身を病魔に蝕まれ、声にならない苦鳴を上げ続ける、巨大な生き物のように感じられた。

 土に触れた指先から、大地の熱病と悪寒が、直接伝わってくるようだった。

「アルドゥスの錬金術か…」

 カイルは、リィナの様子を冷静に観察しながら、地面の土を少量指で摘み上げた。

 それは、パサパサに乾き、生命の匂いが全くしなかった。

「彼の術は、兵士を狂戦士に変えるだけでなく、大地そのものの生命力…地脈を、汚染しながら吸い上げているんだ。君のその、大地と感応する特殊な才能が、その『痛み』を直接拾ってしまっている。無理もない」

 彼は、懐から薬草の入った小さな袋を取り出し、リィナに渡した。

「気休めにしかならんかもしれんが、これを噛んでいけ。少しは感覚が鈍るはずだ。君のその力は、この先の我々の旅の、重要な道標になる。だが、その力に、君自身が潰されるな」

 リィナは、カイルの気遣いに小さく頷くと、薬草を口に含み、リアムの肩を借りて、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女の瞳には、苦痛の色と共に、この地を支配する者への、静かな怒りの炎が宿っていた。


 ヴァルガス領は、カイルたちの想像以上に過酷な土地だった。

 空は常に鍛冶場の煤煙(ばいえん)が混じった鉛色の雲に覆われ、大地は痩せこけ、ごつごつとした岩肌が剥き出しになっている。

 吹く風は鉄の匂いを運び、川の水は鉱山の排水で赤く濁っていた。

 ここでは、竜の解放による再生の恩恵は、まだ届いていないようだった。

 三人は、エルフの斥候から教わった隠密術を使い、ヴァルガス軍の厳重な警戒網を縫うようにして進んだ。

 リアムの戦闘技術、カイルの地形分析、そしてリィナの危険を察知する直感。

 三つの力が合わさり、彼らは奇跡的に敵地深くまで潜入することに成功した。


 道中、彼らはヴァルガスの領民たちが暮らす集落をいくつか目にした。

 人々は皆、一様に屈強な体つきをしていたが、その目には生気がなく、ヴァルガスを神として崇める狂信的な光だけが宿っていた。

 子供たちは遊びもせず、幼い頃から武具の手入れや鍛冶仕事を手伝わされている。

 娯楽はなく、あるのはただ、竜への憎しみと、ヴァルガスへの絶対的な忠誠を叩き込むための、朝夕の集会だけだった。

「まるで、巨大な兵舎ね…」

 リィナは、その異様な光景に胸を痛めた。

「ヴァルガスは、家族を竜に殺された」

 リアムが、静かに言った。

「彼は、二度と誰にも同じ思いをさせないと誓ったのだろう。その純粋な思いが、アルドゥスとセレーネに利用され、歪められ、こんな狂気の国を作り上げてしまった。かつての彼は、誰よりも部下への思いやりに溢れた男だったんだがな…」


 潜入五日目の夜、彼らはヴァルガスの力の源の一つである、巨大な鉱山にたどり着いた。

 そこでは、ヴァルガスの命に背いた何百人もの囚人たちが、アルドゥスの錬金術師に監視されながら、紫煙の釜の原料となる特殊な鉱石を採掘させられていた。

「あの鉱石が、兵士たちを狂戦士に変える薬の材料か」

 カイルは分析した。

「この鉱山を破壊すれば、ヴァルガス軍の戦力を大幅に削ることができる」

 三人は、ドワーフのグリムロックから託された特殊な爆薬を使い、鉱山の支柱を破壊する計画を立てた。

 リアムが陽動として守備兵の注意を引きつけ、その隙にカイルとリィナが爆薬を仕掛ける。

 しかし、鉱山の入り口で彼らの前に立ちはだかったのは、ヴァルガス配下の幹部の一人、「不動」のゲオルグだった。

 岩のような巨体に、塔のような巨大な盾を構えた彼は、まるでその場に根が生えているかのように、微動だにしなかった。

「リアム・ブレイド!裏切り者が、嗅ぎ慣れぬネズミを連れてきたようだな!」

 ゲオルグの咆哮が、鉱山に響き渡る。

 その声には、揺るぎない確信が満ちていた。

「ゲオルグか。お前まで、ヴァルガスの狂気に付き合うつもりか」

 リアムは剣を構えた。

「狂気だと?我らがヴァルガス様こそが正義!竜を野に放った貴様らこそが悪だ!家族を殺された者たちの痛みが、貴様には分からんのか!」

 ゲオルグはそう叫ぶと、巨大な盾を地面に突き立てた。

 ゴッ、と鈍い音が響き、大地がわずかに揺れる。

「お前たち裏切り者は、王都の甘い汁を吸っている間に忘れたようだな。この辺境が、かつてどれほど無力だったか。俺の村は、竜ではない、翼を持つ魔獣の群れに襲われた。当時の領主は、税を取り立てるばかりで、我々を見捨てた。妹が目の前で食い殺されるのを、俺はただ見ていることしかできなかった…!そんな地獄に現れたのが、ヴァルガス様だ!あの方だけが、我々と共に戦い、魔獣を根絶やしにしてくださった!あの方こそが、我々辺境の民の、真の英雄なのだ!」

 ゲオルグは雄叫びを上げて突進してきた。

 リアムは疾風の剣技で応戦するが、ゲオルグは決して深追いせず、狭い坑道の中で盾を巧みに使い、リアムの攻撃をことごとく弾き返す。

 リアムの剣が盾に弾かれるたびに、彼の腕に痺れるような衝撃が走った。

「その剣技、ヴァルガスに教わったな!」

 リアムが叫ぶ。

「だが、守るだけの剣で、俺は斬れんぞ!」

「守るのではない!耐えるのだ!ヴァルガス様が我らに教えてくださったのは、耐え忍び、機を見て必殺の一撃を放つ、この地の民の戦い方だ!」

 ゲオルグはリアムの剣戟を耐えきると、盾でリアムの体勢を崩し、その巨体に似合わぬ速度で背負っていた戦斧を振るった。

 リアムは辛うじてそれを避けるが、頬を掠めた風圧だけで、肌が切れそうだった。

「リアムさん、彼の脇!鎧で覆われていない!」

 戦闘の最中、リィナがゲオルグのわずかな弱点を発見した。

「分かっている、だが直線的な攻撃は盾で防がれる!」

 一方、カイルは、坑道の壁に並べられた鉱石を運ぶためのトロッコに目をつけた。

「リアムさん、右に飛んで!」

 カイルはトロッコの留め金を投げナイフで断ち切った。

 傾斜を転がり始めたトロッコが、ゲオルグの側面に激突する。

「小賢しい!」

 ゲオルグは盾でトロッコを受け止めるが、その衝撃で体勢が、そして何よりその自慢の「不動」の陣が崩れた。

「今だ!」

 リアムの剣が、ゲオルグの鎧の隙間を縫って、彼の心臓を正確に貫いた。

「ヴァルガス…様…、我らの…光…」

 巨漢は、最後まで忠誠を叫びながら、大地に倒れた。


 ゲオルグの巨体が地響きを立てて倒れると、三人の間には一瞬の静寂だけが残された。

 だが、感傷に浸る時間はない。

「急ごう。ゲオルグが倒れたことはすぐに本隊に知れる!」

 カイルの声が、死闘の熱が残る坑道に響いた。

 リアムは、ゲルドとの戦いで負った脇腹の傷を片手で押さえながら、荒い息をつきつつも頷く。

 カイルは背嚢から、グリムロックに託されたドワーフ製の特殊な爆薬を数個取り出した。それは革袋に包まれた粘土のような塊で、起爆装置の表面には微かに光るルーン文字が刻まれている。

「今回の目的は二つ。狂戦士の源である鉱脈の破壊と、囚人たちの解放だ。リィナ、君の力で、囚人がいる区画を避けつつ、鉱脈だけを叩ける場所を探してくれ」

「はい…!」

 リィナは目を閉じ、震える手を坑道の壁に当てた。

 彼女の意識が、大地そのものと共鳴する。

「…鉱脈の最も脆い部分は、あの中央採掘区画のさらに奥。そして、その真上は地表に近い岩盤です。そこを支える岩盤だけを狙って崩落させれば、囚人たちがいる坑道の大部分を傷つけずに、鉱脈を土砂で埋められます!同時に、大きな地響きと混乱で、監視の目は必ず乱れるはず…!」

 三人はすぐさま中央採掘区画へと向かった。

 そこでは、アルドゥスの錬金術師に監視されながら、多くの囚人たちが虚ろな目でつるはしを振るっている。

「リアムさん、監視兵の注意を!俺とリィナで爆薬を仕掛ける!」

「任せろ…!」

 リアムは手負いの獣のように低い姿勢で駆け出すと、物陰から監視兵たちに次々と奇襲をかけ、音もなく無力化していく。

 その隙に、カイルとリィナはリィナが指し示した鉱脈の真上にある岩盤の亀裂へと駆け寄った。

「これを!」

 カイルは爆薬をリィナに手渡す。

 二人は手分けして、粘土状の爆薬を岩盤の亀裂に慎重に押し込んでいく。

 カイルが最後の爆薬を仕掛け終えると、起爆装置の表面に刻まれたルーン文字に指で触れ、魔力を流し込んだ。

「起動した…!残り時間は、三分だ。急げ!」

 その言葉と同時に、鉱山全体にけたたましい警鐘の音が鳴り響いた。

 リアムの奇襲も、もはや限界だったのだ。

「カイル、リィナ!来るぞ!」

 坑道の奥から、松明の光と、怒号を上げる兵士の群れが殺到してくる。

「脱出する!」

 三人は、事前に確認しておいた古い通気口へと、最後の力を振り絞って走った。

 背後から放たれる矢が、すぐ脇の壁に突き刺さる。

 リアムは傷の痛みに顔を歪めながらも、二人の背後を守るように剣を振るい続けた。


 狭い通気口から外の冷たい空気が流れ込んできた瞬間、三人は転がるように外へと飛び出した。

 その直後だった。

 ゴゴゴゴ……という、腹の底に響くような低い地響きが、山全体を揺るがした。

 それは爆発というより、大地そのものの断末魔の叫びだった。

 一瞬の静寂の後、鉱山の山頂付近が凄まじい轟音と共に陥没し、大量の土砂が雪崩のように鉱脈へと流れ込んでいく。

 入り口が破壊されたわけではない。

 だが、この崩落で監視システムと指揮系統は完全に麻痺した。

 鉱山の内部では、突然の地響きと混乱に監視兵たちが右往左往している。

 その隙を突き、虚ろだった囚人たちの目に、生きるための光が戻り始めていた。

 誰かが叫び、つるはしを武器に監視兵に襲いかかる。

 それを皮切りに、巨大な反乱の波が、鉱山の内側から湧き上がった。


 三人は、自らが引き起こした混乱と解放の始まりを、息を切らしながら見つめていた。

「これで、狂戦士を生み出す原料の供給は絶たれた…。そして、囚人たちは自らの手で自由を掴むだろう」

 カイルの呟きに、リアムは血の気の引いた顔で頷いた。

 ヴァルガス軍に大きな打撃を与え、多くの命を救った代償として、彼の脇腹からはおびただしい量の血が流れていた。

「無理はしないでください!」

 リィナは、懸命にリアムの傷を治療する。

 彼の体からは、おびただしい量の血が流れていた。

「…大丈夫だ」

 リアムは、顔色一つ変えずに言った。

「ゲオルグは、強かった。純粋に、ヴァルガスを信じていただけに…。俺が、斬るべき相手ではなかったのかもしれん」

 その横顔に浮かぶ深い苦悩を、カイルとリィナは、ただ黙って見つめることしかできなかった。

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