第十二話 嘆きの川の攻防
嘆きの川は、その名の通り、一年を通して冷たい風が吹き抜ける荒涼とした土地だった。
両岸は切り立った崖に囲まれ、川の流れは速く、渡河できる地点は古くから「慟哭の瀬」と呼ばれる浅瀬一箇所に限られている。
ストーンハート軍は、カイルの指揮の下、この慟哭の瀬に防衛陣地を築き、ヴァルガス軍を待ち構えていた。
塹壕が掘られ、逆茂木が並べられ、弓兵が配置につく。
だが、彼らの表情は硬い。
これから相対するのが、伝説の英雄が率いる狂気の軍団であることを、誰もが知っていたからだ。
やがて、地平線の向こうから地響きが聞こえ始めた。
黒い鉄の津波が大地を覆い尽くす。
ヴァルガス軍の先鋒だ。
その数、およそ五千。
対するストーンハート軍は、義勇兵をかき集めても千に満たない。
絶望的な戦力差に、ストーンハート軍の兵士たちの顔から血の気が引いた。
「怯むな!」
軍の先頭に立ったリアムが、白銀の剣を抜き放ち、兵士たちを鼓舞する。
その姿は、かつての英雄そのものだった。
「我々の後ろには、守るべき故郷がある!一人一人が、一騎当千の覚悟で敵を迎え撃て!」
彼の言葉に、兵士たちの士気が上がる。
だが、敵の威圧感はそれを上回っていた。
ヴァルガス軍の兵士たちは、一様に血走った目をし、口からは泡のような涎を垂らしている者さえいる。
彼らは軍隊というより、統率の取れた獣の群れだった。
「第一陣、突撃!」
ヴァルガス軍の角笛を合図に、数百の狂戦士たちが雄叫びを上げて川に飛び込んできた。
「弓隊、放て!敵の足を止めろ!」
リアムの冷静な指示が飛ぶ。
無数の矢が狂戦士たちに降り注ぐが、肩や胸に矢を受けながらも、彼らは盾も構えず、ただ巨大な斧や棍棒を振り回しながら、矢の雨をものともせずに突き進んでくる。
川の水が、瞬く間に血で赤く染まっていく。
やがて、敵の第一陣が対岸にたどり着き、両軍の白兵戦が始まった。
金属がぶつかり合う音、肉が断ち切られる音、そして断末魔の叫び。
凄まじい戦闘の中で、リアムの剣技はまさに「疾風」だった。
彼は一人で数人の狂戦士を相手にしながら、的確にその急所を貫いていく。
しかし、敵の数はあまりに多い。
ストーンハート軍は徐々に押され始め、防衛線が崩壊するのは時間の問題だった。
リィナは、後方に設置された野戦病院で、次々と運び込まれる負傷兵の対応に追われていた。
「水を持ってきて!」
「止血帯を強く縛れ!」
「駄目だ、この人はもう…!」
悲鳴と呻き声が飛び交う中、彼女は父から渡された短剣を固く握りしめ、恐怖を押し殺しながら、懸命に傷の手当てを続けた。
これが、戦争。
数日前まで畑を耕し、家族と笑い合っていた青年たちが、今や重症を負って彼女の前に運び込まれてくる。
リィナは涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
泣いている暇はないのだ。
「カイルさん、あれを!」
前線と野戦病院を行き来していたリィナが、敵陣の後方を指差した。
そこには、数台の巨大な荷車があり、ローブをまとった魔術師のような者たちが、何やら不気味な儀式を行っている。
荷台の釜からは紫色の煙が立ち上り、その煙を吸った兵士たちが、さらに凶暴化していくのが見えた。
「アルドゥスの錬金術師どもか!」
カイルは舌打ちした。
「あの釜が、奴らを狂戦士に変えている元凶だ!」
このままでは全滅する。
カイルは瞬時に判断を下した。
「リアムさん!中央突破を!俺が道を作る!」
カイルは数人の精鋭兵を率いて、敵陣の側面に回り込む陽動を仕掛けた。
敵の注意がそちらに向いた一瞬の隙を突き、リアムは単騎で敵陣の中央を駆け抜けた。
彼の剣は、立ちふさがる狂戦士たちを次々となぎ倒し、一直線に紫煙の釜を目指す。
「させるか!」
釜を守っていた屈強な指揮官が、巨大な鉄槌を構えてリアムの前に立ちはだかった。
指揮官の鉄槌は大地を揺るがすほどの威力を持っていたが、リアムの剣はそれを柳のように受け流し、一閃のもとに指揮官の鎧を切り裂いた。
リアムは、返す刃で紫煙の釜を両断する。
釜が倒れ、中から粘つく紫色の液体が溢れ出すと、狂戦士たちの動きが目に見えて鈍り始めた。
統制を失い、苦しみ始めた彼らは、もはや軍隊ではなかった。
「今だ!総員、反撃せよ!」
リアムの号令一下、ストーンハート軍は最後の力を振り絞って反撃に転じ、辛くもヴァルガス軍の先鋒を退けることに成功した。
しかし、勝利の歓声は上がらなかった。
慟哭の瀬には、両軍合わせて数百の死体が転がり、川は濃い血の色に染まっていた。
ストーンハート軍の損害も甚大で、生き残った兵士たちの顔には、疲労と、そして人ならざる者と戦ったことへの恐怖が色濃く刻まれていた。
「…これが、奴らのやり方か」
リアムは、血塗れの剣を握りしめながら、東の空を睨んだ。
その夜、野戦病院は負傷兵で溢れかえっていた。
リィナは休む間もなく、次々と運ばれてくる兵士たちの手当てに追われている。
そこへ、カイルとリアムが、夕食代わりの固いパンと干し肉を持ってやってきた。
「リィナ、少しは休め。君が倒れたら元も子もない」
カイルの言葉に、リィナは血と汗で汚れた顔を上げた。
「でも、まだ手当てしなくてはならない人が…」
「いいから食え」
リアムが、有無を言わせぬ口調でパンを彼女の口に押し込んだ。
「英雄様からの命令だ。それに、お前さんが倒れたら、俺の傷を誰が診てくれるんだ?」
そのぶっきらぼうな優しさに、リィナの目から涙がこぼれ落ちた。
初めて人の死を間近で体験し、張り詰めていた緊張の糸が、ふっと切れたのだ。
「う…うわあああん…!」
子供のように泣きじゃくるリィナの頭を、リアムは大きな手で、少しだけ不器用に撫でた。
「…泣きてえ時は、泣いとけ。だがな、明日にはまた笑え。じゃねえと、死んでいった奴らに失礼だろ」
カイルは、何も言わずに、自分の上着をそっとリィナの肩にかけた。
三人の間には、初めての大きな戦いを共に乗り越えた者だけが分かち合える、言葉にならない、静かで温かい時間が流れていた。
その夜の軍議は重苦しいものだった。
「正面からの戦いでは、いずれ我々がすり潰される。兵の質も数も、違いすぎる」
カイルは、地図を指しながら冷徹に分析した。
「ヴァルガスを止めるには、彼の首を直接獲るしかない」
「潜入作戦か。無謀だぞ」
士官の一人が反対する。
「ヴァルガス領は天然の要害。彼の本拠地『アイアンフォート』は、難攻不落の要塞だ。斥候によれば、間道は全て塞がれ、空からは魔獣による監視網が敷かれていると聞く。自殺行為だ」
「だからこそ、少数精鋭で潜入するのです」
カイルは続けた。
「敵の警戒網を抜け、ヴァルガスの心臓部を叩く。俺と、リアムさん、そしてリィナ。この三人で」
「私も、ですか?」
リィナが驚いて聞き返す。
「そうだ」
カイルは、リィナの目を真っ直ぐに見つめた。
「君の、土地を読む力と、人の心を感じ取る直感が必要になる。それに、衛生兵としての君の腕もだ。これは、ただの戦闘ではない。敵地深くまで潜入する特殊任務だ」
リアムもカイルの意見に同意した。
「面白い。英雄ごっこも、たまには悪くない」
作戦は決定した。
本隊は嘆きの川で防衛を続け、三人は夜陰に紛れてヴァルガス領へと潜入する。
それは、あまりにも無謀で、生還の保証もない、危険な賭けだった。




