第十一話 戦火の足音
東の空に上がった黒い狼煙は、宣戦布告の号砲だった。
カイルとリィナが丘を駆け下り、領主館に戻った時には、館はすでに蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
衛兵たちが慌ただしく走り回り、鎧の擦れる音が絶え間なく響いている。
王都からの公式な通達よりも早く、ヴァルガス軍侵攻の第一報が、国境の砦から命からがら逃れてきた伝令によってもたらされたのだ。
作戦室では、執政官アルベリヒと、戻っていたリアムが、血の気の引いた顔で地図を睨んでいた。
「カイル君!東の国境、鷲ノ巣砦が…!ヴァルガス軍の先遣隊によって、半日で陥落したとの報せだ!」
その言葉に、作戦室にいた者たちの動きが止まる。
「半日だと!?」
リアムが、信じられないというように声を上げた。
「鷲ノ巣砦は天然の要害だ。まともに攻めれば、数千の兵でも一月は持ち堪えられるはず…。一体、どんな魔法を使ったんだ」
伝令の兵士が、震える声で付け加えた。
「それが…魔法ではなかったと…。敵の戦い方は、異常でした。兵士たちは皆、まるで痛みを感じないかのように突撃し、城壁から突き落とされても、矢を受けても、雄叫びを上げながら死ぬまで戦い続けたと…。まるで、人の姿をした獣の群れだったそうです」
「…アルドゥスの仕業か」
リアムが吐き捨てるように言った。
「古代の禁術か、錬金術か。東では、ヴァルガスたちがこの世界の再生を『竜による呪いの拡散』だと吹聴していると聞く。人心の不安を煽り、自らの力を正当化するためにな。そうして集めた兵士たちを、アルドゥスが狂戦士に変えたんだ」
「以前から、斥候からの報告では、ヴァルガス軍の動きが活発化していると…」
リィナの声には、隠せない不安が滲む。
「奴が最初に動くと思っていた」
カイルは、一同を見渡し、冷静に分析を続けた。
「アルドゥスは知略家で、事を起こす前に完璧な布石を打つ。セレーネは謀略家。影に潜み、最も効果的な瞬間を待つだろう。だが、ヴァルガスは違う。彼は純粋な『力』の信奉者であり、竜への憎しみも本物だ。最も御しやすく、そして最も危険な男だ。ヴァルガスの狂気的なカリスマと、アルドゥスの非道な知恵が組み合わさった、最悪の軍隊というわけです」
王都にも急使が発たれたが、王家の軍が辺境のストーンハート領まで到着するには時間がかかりすぎる。
ヴァルガス軍の進撃速度は、こちらの想像を遥かに上回っていた。
鷲ノ巣砦を落とした彼らは、破竹の勢いでストーンハート領の東部へと雪崩れ込んでくるだろう。
「リアム殿」
カイルは、壁の世界地図を見つめる伝説の英雄に向き直った。
「時間はありません。我々が、ここで奴らを食い止める」
リアムは、壁に掛けられた自身の剣に手を伸ばし、ゆっくりと鞘から抜いた。
磨き上げられた刀身が、ランプの光を青白く反射する。
彼は、そこに映る自分の顔を見つめ、静かに頷いた。
「ああ。友の過ちは、俺が終わらせる」
リィナも、覚悟を決めた顔で二人の前に立った。
「私も行きます。衛生兵として、一人でも多くの命を救いたい」
その瞳には、かつてのような憧れや理想だけではない、真実を知り、多くの悲劇を目の当たりにした者だけが持つ、強い意志の光が宿っていた。
こうして、ストーンハート領のけして多くはない兵力と、王都からの援軍を待つ義勇兵、そしてカイル、リィナ、リアムの三人を中核とした迎撃部隊が、急遽編成された。
彼らが向かうのは、東部国境の最後の砦、「嘆きの川」と呼ばれる渓谷。
そこが、偽りの英雄と真実を求める者たちの、最初の決戦の地となった。




