第九話 玉座の審判
隠し金庫からガレスの遺した最後の希望を見つけ出した三人に、感慨に浸る時間は残されていなかった。
英雄たちの罪を記した証拠書類と、竜を解放するための鍵。
その二つを手にした今、彼らは追われるだけの存在から、巨大な嘘に反撃の刃を突きつける者へと変わったのだ。
しかし、それは同時に、敵の総攻撃が間近に迫っていることも意味していた。
「どうする?カイル」
リアムが、書類の束を睨みながら低い声で言った。
「この証拠を公にしたところで、奴らは力で全てをねじ伏せに来るだろう。ヴァレリウス公爵のような、奴らの息のかかった貴族が、王の周りを固めている。我々の声が、玉座に届く前に握り潰される可能性が高い」
「だからこそ、王都へ行くのです」
カイルは即答した。
その声には、迷いはなかった。
「この証拠は、法廷闘争のためのものではありません。王に決断を迫り、国家を動かすための『大義名分』です。我々三人が反逆者としてではなく、王の勅命を受けた者として戦うために、これが必要なのです」
「だが、王都までの道は、これまで以上に危険だ」
リアムは懸念を示した。
「奴らは、我々が証拠を手に入れたことを、もう知っているはずだ。総力を挙げて、我々の息の根を止めに来るだろう」
「それでも、行きます」
リィナが、二人の間に割って入った。
その瞳には、恐怖を乗り越えた強い意志の光が宿っていた。
「ガレス様と、リアムさんと、そして名も知らぬ多くの人々の想いを、ここで終わらせるわけにはいきません。私たちが、この真実を玉座に届けなければ」
三人の意見は一致した。
彼らは執政官アルベリヒとゲルハルト隊長に事情を説明した。
英雄たちの大罪を示す動かぬ証拠を前に、最後までリアムを疑っていたゲルハルトも、ついに言葉を失い、自らの過ちを認めて深く頭を下げた。
アルベリヒは、この事態がもはや一領地の問題ではないことを悟り、王都へ向かう三人のために、王家の紋章が入った特使の通行許可証と、最速の馬を用意させた。
「気をつけていけ」
アルベリヒは、三人を見送りながら、絞り出すような声で言った。
「このストーンハート領の、いや、この国の未来が、君たちの双肩にかかっている」
こうして、三人は、世界の運命を左右する証拠を携え、王都への危険な旅路へと出発した。
これが、偽りの英雄たちに、法と正義の裁きを下すための、最後の戦いの始まりだった。
◇
王都への道は、これまでのどの旅路よりも過酷を極めた。
三人がストーンハート領を出て二日と経たぬうちに、最初の襲撃が訪れた。
山間の隘路で待ち構えていたのは、ヴァルガス軍の紋章を掲げた重装の傭兵団だった。
リアムが先陣を切って敵の斧を弾き返し、カイルが地形を利用した陽動で敵の陣形を崩す。
その隙に馬を駆けさせ、どうにか包囲網を突破したが、リアムの肩には浅からぬ傷が刻まれていた。
昼夜を問わず、追撃は続いた。
街道を進めば、セレーネの「影」が潜む町で毒を盛られかけ、森を迂回すれば、アルドゥスの魔術によって操られた森の獣たちが牙を剥いた。
三人はほとんど眠ることも、まともな食事を摂ることもできず、ただひたすらに馬を駆り続けた。
旅の五日目の夜、嵐に見舞われた森で束の間の休息を取っていた彼らを、最大の危機が襲った。
セレーネの暗殺者たちが、嵐の音に紛れて無数の毒矢を放ち、同時にアルドゥスの幻術が三人の精神を蝕んだのだ。
カイルは過去の悪夢に、リアムは友への罪悪感に、それぞれ囚われかけた。
だが、リィナだけが、大地から伝わる不自然な魔力の流れを察知し、幻術の源を見破った。
「罠です!これは、私たちの心を蝕む幻です!」
彼女の悲痛な叫びが、二人の心を現実に引き戻した。
リアムが毒矢を弾き返し、カイルが投げたナイフが幻術師の呪いを破る。
三人は互いを庇い、背中を預け合い、血路を開いてその場を脱したが、その代償は大きかった。
彼らの体は無数の切り傷で覆われ、馬も一頭を失い、体力は限界に達していた。
それでも、彼らは止まらなかった。リィナは持てる全ての薬草を使い、二人の傷を手当てし、カイルは星の位置と川の流れを読んで最短の道を探し続けた。
リアムは、片時も剣を手放さず、二人の盾となり続けた。
疲労と絶望に心が折れそうになるたび、彼らは互いの存在を確かめ合い、ガレスが託した想いを胸に、ボロボロの体を引きずるようにして前へ進んだ。
そして十日後、ついに彼らの視界の先に、王都の巨大な城壁がその姿を現した。
偽りの英雄たちが築いた偽りの平和の象徴。
その門を、今、真実の刃を携えた三人が、こじ開けようとしていた。
◇
王宮は、三人の予期せぬ来訪に騒然となった。
正面から堂々と謁見を求めた彼らの前に、王宮の衛兵たちが立ちはだかる。
しかし、リアム・ブレイドの顔を見た古参の衛兵隊長は、驚愕に目を見開き、剣を収めた。
伝説の英雄の帰還は、瞬く間に城内を駆け巡った。
玉座の間に通された彼らを待っていたのは、玉座に座る老王と、居並ぶ有力貴族たちの猜疑に満ちた視線だった。
特に、英雄たちの代弁者であるヴァレリウス公爵は、冷ややかな笑みを浮かべて三人を一瞥した。
「リアム・ブレイド卿。まさか、生きておられたとはな。酒と博打に溺れ、とうに野垂れ死んだものと思っておりましたが」
ヴァレリウス公爵の嫌味な声が響く。
リアムはその挑発には乗らず、玉座の前に進み出て、深く頭を下げた。
「陛下、長きにわたりご無沙汰しておりました。本日は、我が友、ガレス・ストーンハートの死の真相と、この世界を蝕む大いなる偽りについて、奏上するために参りました」
リアムの口から語られる真実は、玉座の間を激震させた。
竜の封印、世界の歪み、そして英雄たちの大罪。
英雄派の貴族たちは、激しく反発した。
「戯言を!英雄様方への許しがたい侮辱だ!」
「リアム卿は、長年の放浪で正気を失われたと見える!その言葉に、信憑性などありはしない!」
怒号が飛び交う中、ヴァレリウス公爵が静かに手を上げてそれを制した。
「陛下、お聞き入れなさいますな。これは、英雄の座を追われた者の嫉妬に満ちた妄言に過ぎませぬ。彼が主張する『世界の病』とやらも、単なる天災。それを英雄たちの責に帰そうとする、卑劣な企みでございます」
公爵の理路整然とした反論に、貴族たちの多くが頷く。
リアムの告白は、証拠のない一個人の証言として、政治の力で握り潰されようとしていた。
その時、カイルが一歩前に進み出た。
「黙していただきたい」
彼の静かな声は、不思議と、騒然とした玉座の間に響き渡った。
「我々には、証拠がある」
カイルは、まずガレスが遺した日記を差し出した。
ヴァレリウス公爵はそれを鼻で笑う。
「故人の日記など、いくらでも偽造できよう」
「では、これはどうですか」カイルは次に、英雄たちが領地から密かに資金を横流ししていたことを示す裏帳簿の写しを提示した。
「この資金は、ストーンハート領の地下にある『何か』の維持管理費として、長年支出され続けている。公式には存在しないはずの施設に、です」
貴族たちの間に、動揺が走る。
だが、公爵はまだ余裕を崩さない。
「それは、ガレス卿が独自に進めていた、何らかの防災研究の費用やもしれん。彼の死で、全てが闇に葬られたが」
「ならば、最後の証拠です」
カイルは、羊皮紙の束を王の前に差し出した。
「これは、大陸各地で『神隠し』にあったとされる村々の、住民リストと失踪時期の記録。そして、その全ての村が、英雄たちの統治に反対、あるいは竜との共存を主張していたという、生存者からの秘密の証言書です」
王は、震える手でそれらの書類を受け取った。
ページをめくるたびに、その顔から血の気が引いていく。
彼は、確かに近年、領地が痩せ、原因不明の凶作や疫病が頻発しているという報告を幾度も受けていた。
だが、その都度、英雄派の者たちが「一時的な不調」として、調査を打ち切らせていたことを思い出す。
点と点が、今、一つの恐ろしい線として繋がり始めていた。
王は、ガレスの日記の最後のページに記された、苦悩に満ちた筆跡に目を留めた。
『友よ、許せ。俺は、大罪を犯した。だが、この過ちを正すことこそが、最後の償いだと信じている』
長年、友として付き合ってきたガレスの、紛れもない筆跡。
そして、その文字に込められた深い絶望。
それは、偽造できるものではなかった。
「…皆、下がれ」王は、か細い、しかし威厳のある声で命じた。
「ヴァレリウス公爵、リアム卿、そしてそこの二人だけを残し、他は全員だ」
人がいなくなった玉座の間で、王は深く長い溜息をついた。
「リアムよ、ガレスは…苦しんでおったか」
「…はい。誰よりも」
王は玉座から立ち上がり、窓の外に広がる王都の街並みを見つめた。
「儂も、気づいてはおった。この平和が、どこか張り詰めた、脆いものであることにはな。だが、儂は真実から目を逸らした。この偽りの安定を、自らの手で壊すことを恐れたのだ。…ガレスも、同じだったのかもしれんな」
老王はゆっくりと振り返り、三人に向き直った。
その瞳には、恐怖と苦悩を乗り越えた、為政者としての強い光が宿っていた。
「この真実を公表すれば、国は二つに割れるだろう。内乱は避けられぬ。民は混乱し、血が流れるやもしれん。それでも、お主たちは進むと言うのか」
「我々は、止まるわけにはいきません」
カイルが答えた。
「このままでは、世界が死ぬのを待つだけです。流される血があるとしても、それは未来のために必要な、産みの苦しみです」
王は、カイルの目をじっと見つめ、そして、深く頷いた。
「…良かろう。儂も、これ以上偽りの王であり続けるのは御免だ。ガレスが命を懸けて遺した道を、儂が閉ざすわけにはいくまい」
王は再び玉座に戻ると、高らかに宣言した。
「勅命である!これより、リアム・ブレイドを、王直属の特命指揮官に任命する!彼の指揮の下、『竜解放計画』を国家の最優先事項とし、王家はこれを全面的に支援する!この決定に異を唱える者は、王家への反逆と見なす!」
その言葉は、もはや単なる決定ではなかった。
それは、自らも加担した偽りの平和を破壊し、混沌の中から真の再生を勝ち取ろうとする、一人の王の、覚悟の叫びだった。
ヴァレリウス公爵は、怒りと屈辱に顔を歪めながらも、王の勅命の前では何もできず、ただ無言で一礼すると、踵を返して玉座の間を去っていった。
その背中は、決して屈服しないという、明確な意志を示していた。
◇
王の勅命を得たカイル、リィナ、リアムは、王家の精鋭騎士の一部を伴い、ストーンハート城へと急いだ。
もはや彼らは追われる者ではない。
だが、ヴァレリウス公爵をはじめとする英雄派の敵意は剥き出しとなり、道中は目に見えない緊張感に満ちていた。
ストーンハート城の地下深く。リアムが持つ竜の鱗の鍵で、幾重にも施された厳重な封印を解きながら、三人は深淵へと続く螺旋階段を下りていく。
「気をつけろ」リアムが静かに言った。
「この先は、奴らが作り上げた、生きた地獄だ」
ひんやりとした空気が肌を撫で、遠くから不気味な水の音が響いてくる。
壁には、見たこともない古代のルーン文字がびっしりと刻まれ、青白い光を放っていた。
それは、竜の魔力を抑え込むための、呪いの言葉だった。
どれほど下りただろうか。
時間の感覚が麻痺し始めた頃、通路の先に、巨大な空間が姿を現した。
そこには、彼らが「邪悪な竜」と信じていた、一頭の壮大な竜が幽閉されていた。
その鱗は、かつては深淵な青色だったのだろう、今では輝きを失い、所々が剥がれ落ちていた。
体長は城塞の塔にも匹敵するほど巨大だったが、その巨体は、竜の魔力を吸い取る呪いの鎖でがんじがらめにされ、身動き一つ取れないようだった。
竜は深い眠りについているかのようだったが、微かに揺れる胸元が、彼がまだ生きていることを示していた。
竜の瞳は固く閉じられていたが、その瞼の奥には、何十年にもわたる深い悲しみと、そして絶望が刻み込まれているように見えた。
空間全体が、竜の苦痛に満ちた魔力で満たされており、カイルとリィナは、その圧倒的な存在感に言葉を失った。
「これが……竜の、真の姿…」
リィナは、そのあまりに悲痛な光景に、涙を堪えることができなかった。
カイルたちが近づくと、竜は、まるでその気配を察したかのように、ゆっくりと瞼を開いた。
現れた深淵な瞳が、カイルたちを、いや、カイル一人をじっと捉えた。
その瞳は、カイルの魂の奥底、封じられた記憶の炎を見透かすかのようだった。
竜の声が、言葉としてではなく、直接三人の心に響いた。
『…待っていたぞ、炎の子よ。真実を求める者たちよ』
カイルは、竜の瞳に見つめ返され、金縛りにあったように動けなくなった。
そして、震える声で、長年彼を苛んできた問いを口にした。
「俺の…俺の故郷は、あなたたちが…?」
『否』
竜の答えは、静かで、しかし確かな悲しみを帯びていた。
『お前の故郷は、我ら竜と、そして人間たちの戦いの狭間で、人間の掲げた『正義』の炎によって焼かれたのだ。お前を炎から庇い、崩れ落ちる瓦礫の下に隠したのは、お前の母親だ。我々ではない。我々もまた、あの戦いで多くの同胞と、そして愛する大地を失ったのだ』
竜の言葉が、引き金となった。
カイルの脳裏で、固く閉ざされていた記憶の扉が、轟音と共に破壊される。
——『カイル!』母の顔が、炎の向こうで微笑んでいる。彼女の腕が、必死に自分を梁の下へと押し込んでいる。その腕に、燃え盛る梁が落ちてくる。
——『カイル!生きろ!』父の絶叫。竜に立ち向かうのではなく、人間たちの軍勢に向かって剣を構えている。彼の背中を、英雄の旗を掲げた騎士の槍が貫く。
——巨大な影。それは、村を襲う竜ではなかった。燃え盛る村の上を、ただ悲しげに旋回していた、最後の竜の姿だった。
「あ…ああ……」
カイルは、頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
奔流のように溢れ出した真実の記憶が、彼の精神を叩き潰そうとする。
母の最後の微笑み。
父の絶叫。
英雄たちの偽りの正義。
彼を長年苛んできた悪夢は、竜の呪いなどではなかった。
それは、紛れもない、悲劇の記憶そのものだったのだ。
「カイルさん!」
リィナは、蹲るカイルの体を必死に抱きしめた。
リアムは、ただ黙って、苦悶に満ちた顔でその光景を見つめていた。
それは、彼らが犯した罪の、一つの結果だった。
しばらくして、カイルの激しい嗚咽は、静かな慟哭へと変わっていった。
リィナは何も言わず、ただ彼の背中を優しくさすり続けた。
リアムは、壁に寄りかかったまま、その光景を、自らの罪がもたらした結果として、痛みに満ちた顔で見つめていた。
「…そうか」
やがて、カイルはリィナの腕の中で、ぽつりと呟いた。
それは、真実を受け入れた、ひどく穏やかな声だった。
「俺の父さんと母さんは…俺を守るために、死を選んだんだな…」
彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳からはまだ涙が流れていたが、その奥には、長年彼を縛り付けていた悪夢の影はもうなかった。
代わりに、全てを理解したことによる、深い、深い静けさが宿っていた。
彼の視線が、リアムへと向けられる。
友の死の真相と、自らが犯した罪の重さに、今もなお打ちのめされている男の姿。
その姿が、カイルの脳裏で、ある光景と重なった。
「リアムさん」
カイルは、リィナの肩を借りて、ゆっくりと立ち上がった。
「俺は、ずっと間違っていた。あの密室の謎を、論理だけで解こうとしていた。だが、あれはパズルじゃなかった。あれは…愛だ」
「愛、だと…?」
リアムが、訝しげに眉をひそめる。
「ガレス様を刺したのは、確かにイリスでした。長年の、しかし歪んだ愛情と憎しみの果てに、彼女は凶行に及んだ。だが、あの完璧な密室は、彼女が作ったものではない。ガレス様、ご自身が作り上げたものです」
カイルの言葉に、リィナもリアムも息を呑んだ。
「彼は、自らを刺したイリスが逃げるための時間を与え、そして、彼女に嫌疑がかからぬよう、最後の力を振り絞って内側から扉に鍵を掛けたのです。俺の両親が、俺を守るために最後の力を振り絞ったように…。ガレス様もまた、娘のように愛した一人の女性を守るためだけに、最後の力を振り絞ったのです」
カイルの瞳は、目の前のリアムと、そして彼の背後にいるであろう今は亡きガレスの魂を見つめていた。
「だからこそ、彼は犯人の名ではなく、友であるあなたに全てを託すための、暗号化されたメッセージを残した。自らの死に際して、愛する者を守り、友に未来を託す。それが、英雄ガレス・ストーンハートが選んだ、最後の贖罪だったのです」
カイルは、二人の英雄が共有した罪と深い苦悩、揺るぎない友情、そして歪んでしまったが故の深い愛情を、その推理の中に感じ取っていた。
論理ではなく、人の心が解き明かした、あまりにも悲しい事件の真相だった。
その時、彼らの背後から、大勢の足音が聞こえてきた。
王の勅命を受け、エルフの長老フィオラと、ドワーフの鍛冶師グリムロックが、それぞれの仲間を率いて現れたのだ。
フィオラは、竜の解放に必要な古代の癒しの儀式を執り行うために。
グリムロックは、竜を縛る呪いの鎖を断ち切るための、特殊な装置を携えて。
彼らの協力により、竜を縛り付けていた呪いの鎖は断ち切られ、竜は数十年ぶりに、自由の咆哮を上げた。
その声は、大地を震わせ、世界の再生を告げる産声のように、エレジア全土に響き渡るかのようだった。




