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女児を抱きしめた統吾が、ブラックホールから勢いよく飛びす。草むらに背中から落下した。
女児は慌てて起き上がると、統吾から離れていく。
空と湖の境目が薄く一体化し、水色の空間がどこまでも続いている。空気は生温かく、草や土の匂いが瑞々しい。
「痛たたっ」
統吾は、雑草だらけの地面に横たわり腰をおさえる。痛みを堪えながら上半身を起こす。
深緑色の山々は見覚えがある。おそらく、ここは諏訪湖だろう。だが、おかしい。さっきまでとは、様子が違う。空は暗く大雨だったはずだ。芝生も綺麗に刈り込んであった。
伸び放題の歪な形をした植え込みから、すすり泣く声が聞こえる。立ち上がった統吾は、ゆっくりと近づいた。
「さっきのお嬢ちゃんかな? 痛い? 大丈夫?」
返事はない。
統吾は再び話しかける。
「どうして泣いてるの?」
「お兄さんは人間だよね?」
女児はしゃくりあげて答えると、植え込みから半分顔を出す。眉尻が下がっている。大きな怪我はなさそうだ。
「俺がオバケに見える? リアルに人間だよ」
「痛いこととか、怖いことしない?」
統吾には、女児の質問が不思議でならなかった。
「しないよ。嘘ついたら針千本飲むよ」
統吾は思いきりマヌケな顔を作ると、天を仰ぎ大きく口を開ける。人差し指を針代わりに垂らし、本当に飲むぞ、というジェスチャーをしてみせた。
「クスッ」と女児が口角を上げ吹き出した。
雑草の擦れる音を立てながら、女児が姿を見せる。丸顔にくっきりとした二重目をしている。
「俺ね、前園統吾っていうんだ。十八歳。統吾って呼んでね。お嬢ちゃんのお名前とお歳を教えてくれる?」
統吾は腰をかがめて話しかけた。
「加藤ののか。六歳」
「ののかちゃんね」
「あのね、ママが見つからないの。どこにいるか知ってる?」
「マジか。心細いね。一緒に探すから、すぐに見つかると思うよ」
「本当? 見つけてくれるの?」
統吾は微笑み、大きく頷いた。
ののかは「やった!」と嬉しそうに言うと、小さく飛び跳ねた。
統吾は、山に半分以上隠れた太陽をぼんやりと眺める。幼少期の記憶が統吾の中に蘇る。ゴミだらけの散らかった部屋で、母親の帰りを待ち続けた不安と空腹を感じていた。
「街に出てみようか。ママを見つける手掛かりがあるかもしれないよ」
「うん」と、ののかが期待感の溢れる表情を浮かべた。
諏訪湖を背にして、草むらを前に進めば、ホテルやコンビニが立ち並ぶ通りに出るはずだ。さらに、真っ直ぐ進むとJR上諏訪駅だ。役所や交番もすぐに見つかるだろう。
統吾は腰まである雑草を慎重に踏みわける。一人がやっと通れるスペースを、統吾の後にののかが続く。
統吾は、蚊に刺された腕や首に痒さを感じていた。
「うわぁ! 何だ、これ」
統吾は思わず上半身をのけぞらせた。道路の向こう側に見たこともない景色が広がっている。