第3話 黒魔女の策略
「うっ・・・・」
頭がやけに重く感じて、マルギットは静かに目を開けた。
「あぁ!!マルギット!!よかった!私の声が聞えるか?私が解るか?」
キィィィィンーーーー
「うっ・・・・」
耳元で突然に大声が聞え、マルギットは耳鳴りを堪えた。
再びゆっくりと目を開け、大声が発せられた方に目をやると夫のハイノがベッド脇で跪き、マルギットの右手を握っていた。
「うっ・・・・ハイノ?・・・・ここは?屋敷ですか?」
天蓋付きのベッドに横たわり、見慣れた室内を見回す。
「そうだっ!王都の別邸、そなたの寝室だっ!あぁ、神よ感謝しますっ!マルギットが無事で感謝しますっ!」
ハイノは握るマルギットの右手を自身の額に押しあてふるふると震えていた。
「私は・・・・何があったのですか?」
マルギットは王都都城の饗宴の間を出てからの記憶を辿るが、思い出そうとすると頭に激痛が走った。
「うっっ・・・・」
マルギットの痛みを堪える様子にハイノは慌てて握る右手を優しくさすった。
「マルギットっ!頭が痛むのか?無理をせずともよい。ゆっくりと思い出せばよい」
大きく息を吐いて痛みを堪えるマルギットの表情が徐々に緩んでくるとハイノは安堵の吐息を漏らし愛おしそうにマルギットを見つめた。
「そなたは2日間眠っていたのだ。エステール伯爵の婚姻の祝いの席から独り屋敷へ戻る馬車の中で倒れたのだ。屋敷に到着してベルントが馬車の扉を開けるとそなたが座席で横たわり気を失っていたそうだ」
マルギットは左手の甲を額にあて、天蓋の天井を見つめる。
(・・・・そうだ。ポルデュラ様に胸に銀の風の珠を入れて頂いて・・・・馬車に乗った所までは・・・・その後・・・・何があった?)
ズキリッ!
「うっ・・・・」
馬車に乗った後の事を思い出そうとすると激しい頭痛に襲われる。
ハッ!!
マルギットはハッとした。2日間、眠っていたとハイノは言った。腹の子が無事なのかを確かめようと額にあてていた左手で己の腹を恐る恐る触った。
(ほっ・・・・大事・・・・ない)
一月後に子が生まれる予定の腹は見事に大きなままだった。
マルギットが腹を触る仕草を見るとハイノは身体の状態を告げた。
「安心致せ。腹の子は大事ないと医師が申していた。そなたが目覚めれば大事ないと申していた。よかったっ!そなたが無事でよかった・・・・」
ハイノは再びマルギットの右手を自身の額に強く押しあてた。小刻みに震えているハイノの姿はマルギットの無事を喜ぶあまり泣いているように見えた。
カサッ・・・・
マルギットはそっとハイノの頭に左手をのせた。
「ハイノ、心配をかけました。この様なことになる前に少しでも早くハイノに当主代行をお願いしておくのだったわ。私の考えが及ばずごめんなさい」
マルギットは普段は忌々しく感じる夫の言動がこの時はなぜかとても愛おしく感じた。
(・・・・今まで、この男にこの様に暖かな気持ちを抱いたことはあったであろうか?)
己に問いかける。
(いや・・・・全くと言っていい程ない・・・・これもポルデュラ様の銀色の風の珠のお陰なのだろうか?)
マルギットは普段己がハイノに抱く憎しみに近い感情が全くと言っていい程、現れてこないことに驚きを覚えた。
ズキンッ!!!
「うぅぅぅ・・・・」
突然に下腹部に痛みが走った。
ガサッ!!
あまりの痛みに耐えかねて、身体をまるめるように縮こまらせた。
「!!!マルギットッ!!いかがしたのだっ!腹が痛むのか?マルギット!!!答えてくれっ!」
ハイノの言葉に呼応する事すらできない程の激痛が襲う。
「医師をっ!ベーベルっ!至急医師を呼べっ!」
ハイノが大声でマルギット付女官に医師を呼ぶよう叫び声を上げた。
「はっ、はいっ!!」
普段温厚なハイノの怒声に近い叫び声に驚いた女官のベーベルは、バタバタと慌てて医師を呼びにマルギットの寝室から飛び出した。
ホンギャ―――
ホンギャ―――
ホンギャ―――
それから一日半後、マルギットは、およそ一月早く無事に第一子を出産をした。
生まれた子は男子であった。髪はハイノと同じブロンズ色、瞳はまだ目を開けてはいないが恐らくは緋色ではないだろうとマルギットは直感の様なものを感じていた。
己と同じ赤い髪、緋色の瞳。マデュラ子爵家の印を継承していない赤子を目にしたマルギットはほっと胸をなで下ろした。
(よかった。この子は悪意ある言葉を少しでも耳に入れずに過ごす事ができる・・・・)
赤い髪と緋色の瞳を持ち生まれたならば『罪人の家名の印』と事ある毎に囁かれる。
マルギットは我が子に向く風当たりが少しでも弱わまればと心から願っていたのだ。
ハイノはマルギットの隣に寝かされた赤子の小さな頬にそっと触れると愛おしくて仕方がないと言った表情を見せた。
「マルギット、大変であったな。倒れた直ぐ後の出産で・・・・うっ、どうなることかと思っていた。無事に生まれ安堵した。何よりそなたが無事でよかった・・・・」
ハイノはマルギットの左手を取ると優しく口づけをした。
産声が上るまでハイノは一睡もせず寝室の外で佇んでいたと女官のベーベルから聞かされた。
マルギットは、己が生まれた時から婚約者としてマデュラ子爵家で共に住まう10歳年上のハイノがこれほど己を大切に想う気持ちを抱いてくれていたのだと、この時、はじめて認識した。
左手に口づけをしたハイノへマルギットは微笑みを向けた。
「ハイノに似た子でよかった・・・・優しい子に育ちますね」
マルギットは未だかつてハイノに抱いた事のない安らぎを感じていた。
(これもポルデュラ様の銀色の風の珠のお陰なのだろうか?私がこのように安らいだ気持ちを抱けるとは思ってもみなかった)
マルギットは胸の奥深くにずっしりと感じていた黒々とした感情が嘘の様になくなっていることに一抹の不安を抱いた。だが、今はこの安らぎの中に身を置きたいと感じて、抱いた小さな不安は素知らぬ振りをすることにした。
横でスヤスヤと眠る我が子へ目を向ける。
(この子が当主となる時までに、ハインリヒ様が申されていた18貴族の結束を強めることができるだろうか?)
ハインリヒの婚姻の祝いの席で浮かんだ王国を滅亡へと導く考えなど嘘のように消えていた。代わりに強く抱いたものは決意だった。
(いや、何としても100有余年前から続く因縁を我らの手で取り除かねばなるまい。そうせねばこの子も罪人の家名と罵られる。それだけは何としても避けねばならぬ!)
マルギットは決意を固めるとゆっくりと目を閉じた。
「疲れたであろう?少し眠るとよい。赤子は乳母に任せる。安心致せ」
優しく語りかけるとハイノは乳母に子を連れて行くよう指示をした。
マルギットは目を閉じたままハイノに礼を言う。
「ハイノ、感謝しますわ。少し・・・・眠ります・・・・」
マルギットはそのまま眠りの中に潜っていった。
ハイノはマルギットの額に一つ口づけを落とす。
「ゆるりと休め、マルギット。当主の代わりは案ずるな」
ハイノは一言告げるとマルギットの寝室を後にした。
―――どれほど眠っていたのだろう?
フワフワと身体が宙に浮く感覚にマルギットは目を開けた。
ギョッ!!
漆黒の闇の中に深く深く潜っていく。遥か上空に光の点が見えていたが徐々に、徐々に小さくなると辺りは音一つない闇に包まれた。
身体を動かそうとするが、自由が全くきかない。まるでどこまでも続く深い泉の中をゆっくりと落ちていく様だ。
声も出せず、もがく事もできない闇の中ではあるが、不思議と恐怖は感じない。マルギットは再び目を閉じた。
ヒヤリッ・・・・
冷たい何かが両頬を包む。目を開けるが漆黒の闇が広がっていて何も見えない。
ヒヤリッ・・・・
(・・・・また、冷たい・・・・ここはどこなのだ?)
頭に言葉を思い浮かべた瞬間、全身が冷たいベールで包まれた。
(うっ・・・・つっ、冷たい・・・・)
冷たさに身震いをしようにも身体の自由がきかない。
グルンッ・・・・
グルンッ・・・・
あるのは冷たいベールが幾重にも重なり己の身体を包んでいく感覚だけ。
ヒヤリッ!!
耳元に更に冷たい何かが触った。
『ふっ・・・・ふふふ・・・・どうだ?マルギット。そなたの泉の中の加減は?冷たかろう?冷ややかであろう?漆黒の闇がそなたの持つ泉だ。そなたの身体を包むベールは我が封をした我の珠だ。我は100有余年この冷たい漆黒の闇で目覚めを待っていたのだ。
時が来たのだ。そなたが忌々しく思う夫を贄に我は復活する。我が己で封をした珠を解放する。子は無事に生まれたであろう?次の子を宿した後に夫を贄にしろ。第二子は王都城壁訓練施設に入るからな。そこから切り崩しに入るのだ。
訓練施設にいる貴族騎士団の次の担い手を全て我の糧としようぞ。マルギット、そなたの願いが叶うぞ。王国滅亡とそなたが想いを寄せるエステールの当主の命も手に入るぞ。ふっ・・・・ふふふ・・・・どうだ?マルギット、愉快ではないか?
そなたを苦しめたしきたりも他貴族の輩も全て我の糧となる。そなたは道を作るだけで良い。後は我が全て請負う。我の復活はすぐそこまで来ているぞ。あぁ、100有余年、100有余年だ、待ち望んだ。この時を待ち望んだ。マルギット、もうすぐだ・・・・』
「はっ!!!」
マルギットは勢いよく目を開けた。天蓋の天井が目に入る。全身がじっとりと湿っているのが解った。
ブルリッ・・・・
湿る身体に冷たさを感じて身震いをする。
「はぁ・・・・はぁ・・・・なんだったのだ?今のは?夢?」
どれほど眠っていたのだろう?屋敷の中に誰の姿もないかの様に静まり返っている。寝室は蝋燭が灯され、ほんのりと明るかった。
「ベーベル、ベーベルはいるか?」
女官の名前をか細い声で呼んだ。
「はい、マルギット様。お目覚めになりましたか?」
足元から声が聞え、ベーベルへ顔を向けるが身体に力が入らない。
「汗をかいた・・・・着替を。替えの衣を用意しておくれ」
「はい、かしこまりました」
ベーベルは音が立たない様に静かに寝室の中を移動する。
マルギットは蝋燭の灯りで照らされた天蓋の天井へ今一度目を向けると夢とは思えない先程の深く冷たい闇に包まれた感覚に身震いをした。