弐の8 就職先がない
「高校じゃテニスやらないの?」
「入学してすぐ、テニス部の練習を見にいったんだ。中学時代の先輩もいるから。だけど、先輩たちの練習のあまりのハードさに恐れをなして逃げ帰った。それでも入部してる中学の同級生はいるけどね。いつの間にか腕も指も太さが元に戻ったし、日焼けもしない。筋肉は落ちたかな」
「わたしは卓球でずいぶん視力を落として、選手生命の続行を断念したんだ」
「あれ、視力。コンタクトレンズなの」
「そうよ、中学卒業してから。ほら、分かる?」
あっかんべえの仕草をして弥生は黒沢に顔を近づけてきた。分からなかったし、黒沢はよく見なかった。先ほどのスカートのポケットの一件が、たとえ見間違えにしても黒沢にとってはあまりに衝撃的だったから、弥生に対して及び腰になっている。
話題を元に戻そうと黒沢は試みた。
「それで、テニス部入りをきっぱりあきらめてさ、文芸部を見にいったんだ」
「文芸部う」
得意のすっとんきょうな声を弥生は上げる。
「なんでまたそんな、言っちゃ失礼だけどマイナーな文化部に。黒沢くん、そういうの好きなの」
「まあね。だけど、これも部室を見にいってさ、先輩たちがみんな、異世界だとか転生だとか再降臨だとかよく分かんないことをテーマに議論してて、やっぱ違うなって思って入部してない」
「へええ。黒沢くん、作文が得意だったの」
「一度も賞をもらったことはないけどね。ああ、中二のころ」
「ふんふん」
「夏休みの宿題で読書感想文があったんだけど、適当に書いて提出したんだ。ああいうの、先生たちはちゃんと見ないもんだって思ってたから」
「だよねえ」
「そしたら二学期が始まってちょっとして、おれのクラスを受け持たないおばはんの国語教師と廊下ですれ違ったとき、『あなたが黒沢くんね。とっても面白かった、読書感想文。もっとたくさん読んで、たくさん書きなさい』ってべた褒めされたんだ」
「どんな内容で書いたの」
「太宰治の『人間失格』。読んだことある?」
「知ってるけど読んでない。教えて」
「細かいところは忘れちゃったけど、第一の手記、第二の手記、第三の手記で構成されてるんだ。第一の手記が主人公の小学生くらいまでの話で、第二の手記が中学と高校くらい。高校っていっても旧制高校だから、今の大学生の前半くらいまでの年齢なんだけどさ。ほんで、第三の手記が、旧制高校を退学になって精神病院に入れられるまでの話」
「なんか奥が深そう」
「うん、そうなんだ。感想文には、第一の手記の主人公はまるで自分の幼いころがモデルになってるんじゃないかと驚くほど感情移入させられたって書いた。それに、第二の手記の主人公の気持ちも十分に共感できるって」
「そうなの。そんなに」
「だけど、第三の手記で書かれていることはまったく分からない。理解が及ばない。ただ、自分も将来、この主人公と同じ運命をたどることになりそうな気がする、そうなったらどうしよう、みたいなことを原稿用紙四枚か五枚くらいにまとめて出したんだ。おばはん教師から言われるまで、自分でも書いた内容も、書いたことさえ忘れてた」
「第三の手記って、怖いの」
「全体的に怖いよ」
「今になってどう思う」
「なにが」
「感想文を書いてそれから二年経って、その第二の手記の主人公の気持ちにますます近づいたとか」
「どうかな。改めて読み返したら、そう感じるかもね」
「なんでそんな中学生離れした難しそうな本を選んだのよ」
「うちの親父が子どものころに買い与えられたっていう、古い文学全集みたいなのが家にあるんだ。それに、親父の書斎にある本はどれでも自由に読んでいいって言われてるから、読書の習慣はもともとあった。その流れかな」
「ふうん。黒沢くん、国語得意だっけ」
「中学までは国語で苦労したことないんだけどね。高校に入ってからはどうだろう」
「将来、そっち方面とか目指したりしてるの」
「いいや。現代文の中島のおっさんが入学早々、授業で言ってたじゃん。文学部は就職がないぞ、教員くらいにしかなれないぞって」
「それはあの先生に問題があるんだと思う。中島先生が教師にしかなれなかったもんだから、思考が偏ってるんだよ」
「そうかもな」
(「弐の9 悪筆で読めない」に続く)