弐の7 うれしはずかし初デート
職員室を出ると、再び熱気に包まれた。
「あのおっさん、出発時刻の違いに気付かなかったのかな。それとも見逃してくれたのかな」
黒沢は安堵したが、弥生は新たな問題に直面していた。
「そんなことより、なんなのよ、こんなひらひらした紙。許可証っていうからカードみたいなもんだと思ってたのに」
その時、黒沢は初めて気付いた。終始、後ろや隣にいたから視界に入らなかったが、弥生は朝渡された封書をそのまま手に持っている。
「ロッカーにもかばんにも、手提げ袋は常備してあんのよ。黒沢くんが先にすたすた行っちゃうから、そのままこれ持って追っかけてきちゃったじゃない。その上、こんなひらひらの紙まで持たされちゃうなんて」
「取ってきなよ、手提げ袋。待ってるよ」
「冗談でしょ。今さらまた衆人環視のあの廊下を往復したくなんかないよ」
「違うルートで行けばいいじゃん」
「どっちにしろうちのクラスの子たちには見られちゃうじゃない。佐々木先生をだまして十分早く出て、その上、忘れ物を取りに戻るなんて嫌っ」
弥生の価値観を、黒沢は理解できない。
「一緒に行こうか」
「なに言ってんの。そんなことしたら、ますます不審がられちゃう。どこかで授業中の先生に呼び止められるリスクだって高まるのよ」
職員室前でああだこうだ言い合っている方が、教師をだまして二人で行動していることが発覚しやすいのではないかと黒沢は思った。そして、いつの間にか無意識に、外出許可証を四つに折り畳んでいる自分に気付いた。
今度は意識して、ズボンのポケットに突っ込んでいた封書を取り出し、畳んだ外出許可証ではさんでポケットに戻した。
「はああ、もおお」
弥生は観念したように、黒沢をまねてひらひらの外出許可証をきれいに折り畳み、封筒と一緒に、制服スカートの左側のひだの間に滑り込ませた。
「あれ、そんなところにポケットがあるの?」
女子の制服の構造について黒沢はなにも知らない。
「そうよ。ほら」
弥生はスカートのひだを開いて見せてくれた。ポケットの奥から弥生のももの肌色が見えた気がして、黒沢は頭がくらくらした。
(藍田さんも結構がさつだね)
前の日のお返しでとっさに吐こうとしたせりふが、口から出てこない。
直射日光が肌を差す。
「日中で一番暑い時間帯だよな」
「そうだね」
校門を出て黒沢と弥生は、市民病院に向かい並んで歩道を進んでいった。
「デートみたいだね」
弥生が二、三歩スキップして前に出て、振り返りながら言った。
「短パンとビーサンに履き替えてくりゃよかったな。上はTシャツで。浮き輪なんかも膨らませちゃってさ。海はないから、行き先は川かプールだな」
黒沢は弥生に合わせて、はしゃいで見せた。
弥生はまっすぐ歩かない。歩道上をこまのようにくるくる回転しながら前に進む。
「黒沢くん、デートしたことある?」
「ないよ」
「わたしも」
「ふうん」
「初デートだね」
「そうかも」
「なによ、うれしくないの」
「なにが」
「わたしと初デートして」
「うれしすぎて緊張で心臓がばくばくしてるよ。あ、これはさっき浮き輪膨らませたせいかな」
黒沢がおどけると、弥生はあははと笑った。
「黒沢くんさあ」
「うん」
弥生は回転をやめて、黒沢の隣をまっすぐ歩きだす。
「貧血気味なの?」
「いいや。そんなこと、これまで一度も言われたことないな」
「わたしもないよ。朝礼とかでばたっと倒れる子がよくいるじゃない。そういうのとは無縁だった」
「おれも。立ちくらみなんかしたことない」
そう言いながら黒沢は、弥生にスカートのポケットの奥を見せられ頭がくらくらしたことを思い出し、あれも立ちくらみと同じなのだろうかと顔がのぼせるのを感じた。
「黒沢くん、中学で部活やってた?」
「三年までテニス。ラケットの握り方が悪かったみたいで、中三のころは右腕と右手の指が、左よりずっと太かった。日に焼けて肌も真っ黒でさ。藍田さんは?」
「わたしは三年まで卓球。そんなに体が弱い方じゃないんだけどな」
「ふうん。そうなのか」
(「弐の8 就職先がない」に続く)