弐の6 男のかい性
翌日の朝のホームルームが終わる際、黒沢と弥生は担任から、表側の下五分の一ほどのスペースに高校の名前が印刷されている細長い定型の茶封筒を受け取った。封筒表面の隅に、クラスと氏名が手書きで記されている。口はのり付けされており中身を見ることはできないが、薄っぺらな紙が一枚だけ三つ折りで入ってる程度にしか感じられない。封書を受け取りながら、弥生は深いため息をついた。
黒沢はその封書を、いつも机の横の床に直置きしているかばんの中に放り込んだ。
教室には掛け時計がないから、黒沢は腕時計を外して机の上に置き針をにらみつけながら五時間目の授業を受けた。現代社会の佐々木には、前日担任から言われた通り、弥生と一緒に話を通してある。
二時まであと一分の段階で、黒沢はかばんから封筒を取り出した。そして、佐々木の講釈のタイミングを慎重に見計らい挙手した。
「先生、市民病院に出発させていただきます」
突然の発言に、黒沢より前の席のクラスメートが一斉に振り返り黒沢に視線を寄せた。
「おう、行ってこい」
黒沢の父親世代とおぼしき佐々木はちらりと黒沢を見て、すぐに視線を黒板に戻した。黒沢は封書を二つ折りにしてズボンのポケットに突っ込み、席を立った。教室後ろに向かう際、弥生と目が合った。すると、弥生も同様に挙手した。
「先生、わたしも出発させていだだきます」
「おう、分かったぞ」
授業前に途中で抜けることを佐々木に申し出る際、弥生は指定された時刻を申告していなかったような気がする。謀ったのに違いない。弥生の大胆な行動に黒沢は軽いめまいを覚えた。
共謀していると疑われるのは嫌なので、黒沢は弥生を無視して、後方の戸のはまっていない開口部からそのまま教室を出た。振り返らずに職員室を目指した。
職員室に向かう廊下に面する、開け放たれた各教室内を見わたすことができる。夏の授業中の教室を外から眺めるとこんな感じなんだと新鮮だった。いつかテレビで見た、海外の小学校のオープンスペース型教室のようだ。
そして、授業時間帯だというのに廊下を歩いている黒沢も、各教室の横を通過するたびに室内から注目されているような気がする。早く教室群を抜けなければならないと黒沢は先を急いだ。
ぺたぺたとスリッパで駆ける音が後ろから近づいてくる。弥生だ。黒沢に追いつくと、横に付いて歩を合わせた。
「なんでどんどん先に行っちゃうのよ」
小声で、しかし、責めるような口調で弥生は訴える。
「十分間隔だって言われてたろ。おれが無理やり連れ出したとでも思われたらどうしてくれるんだよ」
「そんなの気にしないのが男子のかい性ってもんでしょ」
「それが男のかい性なら、おれは男でなくていい」
二人は並んで、小競り合いしながら職員室前に到着した。
「一緒に入るの」
「当然でしょ」
「知らないぞ」
黒沢がノックし、職員室の引き戸を開けた。中からエアコンの冷気が流れ出て、顔、首、腕の肌が露出している部分を直撃する。
「入ります」
決められた通りの作法を守ったが、中からはなにも返答がない。職員室奥の、一年生の担当教師が陣取るデスクの島に黒沢は向かった。後ろから弥生も付いてくる。途中、誰からも声を掛けられたり進行を制止されたりすることはなかった。
島の一番手前で、黒沢のクラスを持たない若い理科教師がパソコンをいじっている。
「先生」
黒沢は恐る恐る声を掛けた。弥生は黒沢の陰に隠れるように、一歩後ろにいる。
「うん」
理科教師は、パソコン画面から視線を外さない。
「一年七組の黒沢です。外出許可証を受け取りにきました」
「そうか」
ようやく腰を上げ理科教師は島と島の間の通路の奥に行き、スチールロッカーの上に置かれているプラスチックの書類棚の引き出しを順番に開けだした。
「これかな」
A4サイズの用紙を二枚両手で携え戻ってきた。背中を冷たい汗が伝うのを黒沢は感じた。十分差で授業を抜けるという決まりを守らなかったことが露見するのではないかと恐れた。
若い教師は、用紙と黒沢たち二人を交互に見比べる。
「もう一度、クラスと名前を言え」
「一年七組、黒沢裕太です」
「同じく、藍田弥生です」
「よし、許可する。内容を確認しろ」
黒沢が先に両手で用紙を受け取った。後ろに控えていた弥生は、一歩前に出て同じように両手で受け取った。
《外出許可証》
用紙の頭に大きく印字されている。その下に、当該生徒の外出を許可するうんぬんのただし書きが二行にわたって小さな活字で記され、一番下には、学校名の上から、学校長の印鑑が朱肉で押されている。なんとも仰々しい代物だ。
用紙の真ん中に、対象者のクラス、氏名、行き先の項目があり、各欄は担任の筆跡らしい手書きで埋められている。
《午後2時》
出発時刻の欄もしっかりそう記されている。黒沢は弥生の横顔を見た。
「はい、間違いないです」
そう言って弥生は、黒沢に目配せし自分の用紙を見せた。
《午後2時10分》
そう記されている出発時刻の欄を見て、冷や汗が腰の辺りまで到達しているのを黒沢は感じた。理科教師はすでにパソコン作業に戻っている。
「行ってきます」
「うん、行ってこい」
黒沢のあいさつに、理科教師は目も合わさず応じた。
(「弐の7 うれしはずかし初デート」に続く)