弐の3 怒りの矛先
すでに四時間目が始まっている時刻だ。誰かがどこかで自分を待っているのではないかと黒沢は期待したが、誰にも会わず教室に到着した。
教室後ろの引き戸を少しだけ開けのぞき込んだ。ふてくされた表情で教壇のいすに腰掛け、教卓に肘をつく数学教師の姿が見える。
「五番、黒沢。戻りました」
口ごもらずはっきりと申告して教室に入った。数学教師は無言のまま、両手のひらで支えた顔で小さくうなずいた。
入学以来、席替えをしていないので、すでに戻ってきているクラスメートは、出席番号の早い教室右端の男ばかりだ。このうちの誰かが次のクラスへの伝令役を務めたのだろうと黒沢は察した。
一番後ろの自分の席に着いて、机横の床に直置きしている通学かばんから数学の教科書とノートを取り出し、改めて前方を見ると、黒板に白いチョークで、《自習》と書かれていた。
採血が終わったクラスメートは三々五々帰還してきて、四時間目が終わるころまでに、出席番号末尾の女子を含め全員そろった。みんな、左右どちらかの耳に白いばんそうこうを付けている。
数学の授業はまったく先に進まずにチャイムが鳴った。級長による「起立、礼」の号令を、数学教師は止めなかった。
教師が前の開き戸から出ていってスリッパの音が聴こえなくなったら、教室左側半分の女子が一斉に騒ぎだした。
「あいつら、むっかつくわあ」
「なんなの、あの態度」
女子の怒りの矛先はどうやら、看護学生たちに向いているようだ。
四時間目が終わったら昼食だ。黒沢は、弁当を食いながら、看護学生に翻弄された情けない話で男同士、盛り上がろうともくろんでいた。ところが、女子は女子で、看護学生たちに対する不満が鬱積しているのだ。
「どうしたのさ」
教室真ん中辺りの男が、怒り心頭の女子に尋ねる。
「あんたたちも気付いてたでしょ。あの女ども、男子と、わたしたちに対する態度がまったく違うんだよ。なんなのよ、あのこび方」
「そうだよ。男子にはしおらしくてかわいいふりして、かいがいしく看護師ぶって。わたしたちには、『はい右、はい左、はい針ぶち』。あれ、絶対わざと痛く刺してるよ」
黒沢は驚かされた。看護学生が女子にどういう態度を取っているのかについては関知しなかった。ただ、他の男たちも自分と同様に、子ども扱いされたのかどうかだけが気に掛かっていた。
女子による罵詈雑言は続く。
「欲求不満なんだよ。三年も五年も周りが女ばっかで」
「看護実習とか言って、結局、男あさりじゃん」
ここまで同性に対し集団で激高する同年齢の女子の姿を、黒沢は生まれてこの方、見たことがない。
「男子い。あんたたちも、ああいうのに引っ掛かっちゃだめだよ」
右端最後尾の黒沢の席からは、教室全体が見渡せる。女子の大半は、四時間目が終わった「起立、礼」の後に着席せず、立ったまま息巻いている。男は全員、着席してはいるものの、わが身に火の粉が降りかかるのを恐れてか、弁当も広げられないような状態で固まっている。黒沢も同様だ。
「くそお」
バスケットボール部で長身の女子が、教室後方を伝って黒沢の席にずんずん近付いてくる。自分がなにかされるのではないかとおびえ、黒沢は迫りくるその長身女子から目が離せなくなった。
「うおりゃあ、死ねや」
バスケ部女子は自分の耳のばんそうこうをべりりと豪快にはがし握りつぶすと、黒沢の席の後ろの教室隅にある円柱型のごみ箱に、バスケットボールをダンクシュートするかのようにたたき入れた。そしてさらに制服のスカートをひるがえし、ごみ箱の腹を強く蹴った。ごみ箱は隅の壁二面に当たって軽快な音を立て、反動でくるくると角度を変えたが、かろうじて倒れず踏ん張った。ごみ箱が安定して動きが止まる前に、バスケ部女子は自分の席に戻っていった。ごみ箱は無傷のようだ。
彼女の会心の一撃で、クラスの女子は落ち着きを取り戻したように見える。
「食べよ、食べよ」
女子は机を引きずって周囲とくっつけ合い、なにごともなかったかのように、いつものような昼食風景を展開した。
黒沢も、弁当を広げた。いつものように前の席の木下が脚を広げ後ろ向きにいすにまたがり、黒沢の机の上で弁当を広げた。
木下は木下で、採血に当たった看護学生や、今収まったばかりの女子による一騒動について思うところがあるような素振りだったが、黒沢は、女子が落ち着いている現在、もうこの関連事案は蒸し返さない方がいいような気がして、話に乗らなかった。
だから、黒沢の抱いた看護学生による「子ども扱い」じみた違和感が、男連中に共通するのか黒沢による見当外れのものなのか、確認するすべを失った。
血液検査のことを黒沢は、それからしばらく忘れていた。
(「弐の4 そろって居残り」に続く)
【2024/08/25 追記】
脚を広げ後ろ向きにいすにまたがり、いつも黒沢の机の上で弁当を広げる前の席の木下のモデルで高校の同級生、〈М・K〉くんが亡くなりました。彼は、本サイト未掲載の別作品にも別の名前で登場します。
おれのフィクション作の登場人物には、常にモデルが存在します。ストーリーは事実(≒史実)に基づき、主人公はほぼ、おれの姿や考え方を投影しています。(筆者)