弐の31 痛恨の失言
そうか、弥生はまだ十六歳なんだ。十六歳の折り返し地点を、ようやく過ぎたばかりだ。一歳しか、月日にしてみればわずか八カ月しか離れていないながら、弥生のことを黒沢は、保護するべき、いたわるべき存在だと、それまでよりずっと深く思った。
ところが、黒沢はとんだ過ちを犯してしまった。それは極めて重い部類に入る罪だ。一年前のことが頭に浮かんだのだ。赤十字の献血車が来た時、弥生はまだ十五歳だった。献血のできない年齢だった。
「藍田さん、今年は献血するの」
弥生の表情が急に消えた。色を失った。左右の眼球が小刻みに震えだしたように見える。
全責任は自分にあると、黒沢は世界に向かって叫びたかった。世界中で自分だけが厳罰を受けなければならない。最悪の事態を招いてしまった。
「黒沢くんだって、去年しなかったじゃない。十六歳になってたっていうのに。なんでわたしが太い針を刺されて痛い思いして、誰ももらってくれない、なんの役にも立たない、使い道のない血を抜かれなきゃならないのよ」
黒沢には返す言葉がない。
「帰る」
席に戻り机の上にまとめてあった荷物をひっつかむと、弥生は教室前の出入り口にずかずか歩いていった。そして、勢いを付けて引き戸を開け、振り向きざまに、長文の捨てぜりふを吐いた。
「黒沢くん。あなたは今年、絶対に献血しなさいよ。わたしよりずっと健康な支障なしの血液で、世の中の役に立ちなさい。赤十字の看護師のきれいなお姉さんにたくさんA型の血を抜いてもらって、鼻の下伸ばして、興奮して鼻血をいっぱい噴き出して、貧血でぶっ倒れればいいんだよ」
廊下側の窓が全て揺れるほどの振動とともに、引き戸は木と木のぶつかる大きな音を立て閉まった。戸枠に弾かれ、戸板はレール上を少し戻ったが、その隙間から弥生の姿はすでに消えていた。
血液型の話をしだしたのは弥生だ。弥生は、その話と血液検査との関連性を、意識していなかったに違いない。性格診断だか占いだかの、軽い話題の材料としかとらえていなかった。
しかし、献血はまた別だ。明らかな失言だと黒沢は自戒した。弥生が戯れで下した性格診断の、最後の部分はまさしく当たっていることが証明された。血液型の遺伝に関する話題に慎重になろうとしたばかりに血液検査のことを軽んじていたという言い訳は、誰に対しても通用しない。
そして、弥生のせりふから、初夏のころ市民病院で受けた再検査の所見が一つ進行していたことを、弥生はやはり今でも気にしているのだと、黒沢は再認識した。
当たり前だ。数値が悪化していたのだから。翌年には、さらに進行しているかもしれないのだから。それを、黒沢は高みの見物だった。自分は症状が進行していなかったから。
だから、あんなひどいことが言えたんだ。黒沢は、生まれてこれ以上の経験をしたことがないほど胸を痛めた。
翌朝の勉強会に、黒沢も弥生もいつも通り出席した。弥生は、前日のことで黒沢を責めたてもせず、無視することもなく、なにごともなかったかのように振る舞う。黒沢にノートも貸してくれた。
弥生は、ほかの誰にも、前日の黒沢の、非情で凶悪で卑劣で最低な思いやりの欠如した暴言について、口外していないようだ。弥生がそんな軽々しい性格の持ち主ではないことを、黒沢はよく知っている。
だけど、弥生の血に関する悩みをくみ取ることができるのは自分しかいないという、そもそもその根拠さえ薄弱だった自負心は、消えてしまいそうだ。弥生のために自分がなんとかしなければならないと燃えていた使命感に、自信がなくなった。あれは偽善だったのだと落胆した。
もう元には戻れないかもしれない。同じ境遇でいたわり合うべきだと思っていた弥生との関係は、終わったのかもしれない。黒沢は、大切な物をなくしてしまった。自らの過失で、ぶち壊しにしてしまった。
謝罪しなければならないと思った。しかし同時に、尾を引かせない方がいいとも考えた。弥生に献血のことを忘れさせなければならないからだ。
献血車が来た日、クラスの半分ほどが教室に残った。弥生も残留組だ。怒った弥生から献血をするよう強く言いつけられた黒沢も残った。弥生はなにも言わなかった。
そのうち、弥生が性格診断で何番目かに指摘した通り、黒沢は、自らがしでかした多大な過ちも、一日のうち忘れている時間帯の方が長くなっていった。
クリスマスも正月も、なにごともなく過ぎた。冬休みは夏休みと違って補習授業がないから、当然のことながら、朝の勉強会もない。
(「弐の32 ラッキーな2月のカレンダー」に続く)




