弐の2 戦地で捕虜見分
一カ所しかない出入り口から、耳にばんそうこうを貼った隣のクラスの男が、そしてその後、女子が次々と出てくる。それに追随し、列は前に進み、一人ずつ実験室に吸い込まれていく。ただ、並んでいる位置から、室内の様子はうかがえない。
やがて黒沢が列の先頭になり、すぐに、実験室内の見知らぬ白衣の中年女性から、「どうぞ」と呼び込まれた。そこには、初めて見る不思議な光景が広がっていた。
白衣の若い女性が、まるで戦争中の捕虜の後頭部を見分しているようなありさまだ。「実験室」という言葉の響きが、その構図の異様さをよけいに引き立たせる。
実験室には、固定式の大テーブルが六卓ある。テーブル周りの丸いすが、普段の半分以下に間引きされている。「捕虜」は各テーブル両サイドに一人ずつ。六卓合わせても、一度に十二人しか座れない。隣のクラスの女子と黒沢のクラスの男がランダムに、てんでばらばらな方を向き、無抵抗状態で座らされていた。
全員立っている白衣の女性は、ざっと三十人。しかし、白衣をまとってはいるものの、看護師には見えない。なぜだか分からない。その訳を考えているうちに中年女性が、黒沢の行く先を指定した。
「あの手を挙げている実習生のところへ」
実験室の一番奥で、白衣姿の二人組がこちらを向いている。そのうちの一人が手を挙げているのは、空席の合図のようだ。
看護師に見えない理由がようやく黒沢に分かった。彼女たちは、ナースキャップではなく丸い帽子をかぶっている。小学校の時に社会見学で行った、給食センターの職員のようないで立ちだ。
捕虜収容所のような室内を人にぶつからないよう身をかわしながら、黒沢は二人が待つテーブルに向かった。二人のうち一人はなにかを記入するボードを、もう一人は、消毒用の脱脂綿のようなものを手にしている。
テーブル上では、細長い小さなチューブ状の医療器具のようなものが、ロット単位で紙箱から顔をのぞかせる。先端に針が付いているように見える。白い半透明の、未使用らしいチューブが何本か無造作に散らばっている。血液を採取したらしい赤い大量のチューブは、試験管立てのようなかごにそろって収まる。
「はい、こちらに座って。クラスと出席番号を確認させてね」
顔を見ていなかったからどちらか分からないが、二人のうちの一人に促され黒沢は丸いすに腰掛けた。その口調に黒沢は、軽い違和感を覚えた。あれ、と思った。
白衣の二人はそろって、黒沢の後方に回る。そして黒沢は、戯れで両耳たぶをくすぐられた気がした。
「右耳から採ります。こっちですよお」
まただ。なにかがおかしい。先ほどとは異なる声の主だけど、物言いは共通する。
言われた通り黒沢は丸いすから腰を浮かせ座る向きを変えた。右肩に白い布が掛けられた。布には点々と細かい血痕が残っている。
「刺しますよお。痛くないですからねえ」
二人のうちどちらが言ったのか分からない。しかし、黒沢の疑念はますます深まる。右耳たぶをまさぐられた感覚がしたあと、ちくりと痛みが走った。
「はい、おしまいです。お利口さんでした」
耳たぶにばんそうこうが貼られる音がごわごわとして、肩から布を取り除かれた。
黒沢は確信した。自分はこの二人の看護学生から、完全に子ども扱いされている。このやり口は、明らかに小児患者への接し方だ。
お利口さんだと褒められたものの黒沢は、なんと返答したらよいか皆目見当が付かない。子ども扱いされたことが腹立たしくも恥ずかしくもある。「ありがとうございました」のような社交辞令を口の中でもごもご言いながら、頭を下げ席を立った。
改めて周囲を見渡すと、入室した際は気付かなかったが、室内には女子校の教員らしい白衣の女性が三人ほどいて、各テーブルに目を光らせている。頭にはなにも被っていない。最初に入室の案内をした中年女性も、たぶん女子校の教員であろうと黒沢は推量した。
実験室を出ると外廊下には、クラスの出席番号の遅い女子数人がまだ列をなしている。
「まっすぐ教室に戻れよ」
先ほどの英語教師は、時間割りの都合であろう、姿を消していた。代わりに、今度は黒沢のクラスも受け持つ英語教師が、実験室出入口の番をしている。どうやらなにかの巡り合わせで、この日は英語教師ばかりが立ち番をさせられ割を食っているのだろうと、黒沢は彼らに同情した。
二人の看護学生から受けた辱めを誰かと共有したくて次に出てくるクラスメートを待ち伏せしようと黒沢は考えていたのだが、面倒ごとになるのはごめんなので、英語教師の指示に従い実験室を離れた。
外廊下から内廊下に入ってすぐ、実験室に向かう次のクラスの集団とすれ違った。
「どうして並んでこないんだ。委員長はいったいなにをしている」
後ろから英語教師の怒号が聴こえた。
(「弐の3 怒りの矛先」に続く)