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  作者: 守尾八十八
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弐の20 悪魔の尻尾

 盆地では梅雨の期間中、年間降水量の三分の一が集中するという。全国的にもそれは高い割合で、そもそも降水量自体多いのだとなにかで読んだ。黒沢は、前年の例から、市民病院で受けた再検査の結果がそろそろ出るころだと予感していた。

 だから、弥生とともに居残りを指示された日は、やっと来たかと半ば安堵した。

「先生」

「なんだ」

「わたしたち、一緒に職員室に行ってもいいですか」

「わたしたち?」

「黒沢くんとわたしですよ。どうせ再検査の結果でしょ」

 居残りを指示された終業のホームルームが終わり、担任の解散の号令が教室に響くや否や、弥生がむちゃな要望を繰り出した。担任は、黒沢の顔を見た。

「おれはどっちでもいいですよ」

 気のない返事を黒沢はした。

「わたしたち、去年もそろって再検査を受けて、そろって支障なしだったんです。今年も同じですよね」

「そうだって言ってたな」

 教壇の担任は眉間にしわを寄せながら、えんま帳を開いてなにかを確認しだす。

「まあいい、どうせ同じやり取りの繰り返しなんだ。おまえらがそれで構わんのなら、二人とも一緒に来い」

「やったね。黒沢くん、行こ」

 弥生にいざなわれるがまま黒沢は担任に付いていった。ホームルームを終えたばかりの教室の前の廊下は、どこも混雑している。

「再検査の結果なんて教室に持ってきてくれればいいのに、先生も気が利きませんねえ」

 弥生の担任に対する調子づいた軽口を、黒沢は冷や冷やしながら聴いていた。

「ばか言うな。ああいう重要書類は、軽率に職員室から持ち出さない決まりになってるんだ」

「なぜですか」

「ほかの生徒の目に触れるとまずいこともあるだろ」

「どうしてほかの子の目に触れちゃうんですか」

「それは、教師が誤ってどこかに落っことしてしまう恐れがあるからだ」

「あはは。先生も人の子ですね。あ、人の親でもありましたか」

 そんなことまで言って大丈夫かよと、黒沢は気をもんだ。自分が止めるべきなのではないかとも思った。

 ただ、黒沢は分かっている。

 弥生は、安心の材料を手に入れようとしているのだ。前年、黒沢が検査結果を受け取って教室に戻った時、弥生はベランダで雨に濡れていた。結果を通告されるのが恐ろしかったのに違いない。それが、支障なしという予想に反して軽い内容だったから、拍子抜けしたのだ。

 職員室に担任、弥生、黒沢の順番で入り、担任のデスクに行き、担任はデスクの引き出しから、重要書類だという前年と同じ茶色いモザイク模様のシートを取り出した。

 そのことで、黒沢は思い出した。前年も今回も、病院に提出した封書は、教室で受け取った。つまり、のり付けされて中身の分らないあの封筒には、個人の病状を示すような重要なデータは入っていなかったのだ。看護学生による採血の結果は、黒沢の学校を経由することなく、あるいは、学校を経由するにしても黒沢や弥生の手によらず病院に送られたのだろう。

「こっちが黒沢の分、こっちが藍田。間違いないな」

 担任は両手にそれぞれシートを一通ずつ持ち、表面に打刻されているはずの氏名で識別した。

「取り違えても大差ありませんよ。ね、黒沢くん」

「……」

「二人とも問題なしだ。今年度の健康診断は、これでおしまい。以上」

 黒沢と弥生は、目を合わせた。弥生は検査結果のシートを両手で大切そうに持ち、口元に押し付けている。笑いがこらえきれないのを、シートで隠しているように見える。シートにキスしているようでもあった。


 シートを開かないまま、黒沢と弥生は並んで教室に戻った。歩きながら、弥生はよくしゃべる。同じクラスや別のクラスのうわさに関する話題ばかりで、受け取った検査結果のことは忘れてしまっているのではないかと黒沢は思ったほどだ。黒沢は、徹底して聴き役に回った。

 教室は無人だった。黒沢と弥生はそれぞれ自分の席に着き、シートをぴりぴりと破った。弥生は鼻歌交じりだ。

 開いたシートの最下段を黒沢は注視した。異常なし、支障なし、経過観察、要精密検査、要治療、治療中の、所見を示す選択肢六つのうち、異常なし、経過観察、要精密検査、要治療、治療中が、水色のインクでつぶされている。二番目の支障なしだけが、楕円で囲まれている。前年とまったく同じだ。かすかな期待があった、一番目のまっさらな異常なしには改善していなかった。

 シート面積の大半を占める検査項目に、ざっと目を通した。赤血球数、ヘモグロビン値、ヘマトクリット値が、基準の数字をオーバーしている。これも、前年と同じのはずだ。

 ほかになにか変わったことはないか、各項目を一つ一つチェックしていった。

 席の正面に、弥生がいつからか立っていることに黒沢は気付かなかった。


 見上げると、弥生は手のひらで口元を押さえている。もう片方の手で、シートを黒沢の机の上に置いた。置いたというより、高所からぱらりと落下させたように黒沢は感じた。シートは不安定に舞って、黒沢の机の上を滑って止まった。

 黒沢は理解した。世界の音という音が全てかき消された思いがした。弥生に見せてはならないものを見せてしまっただろうと、物を言わぬ世界を無言でののしった。

 シートには、ミシン目に沿ってていねいに破り取られた三辺の、幅一センチほどの縁がわずかな一部で本体にしがみ付き、長いしっぽのように残っている。先が矢印の形をしたしっぽを持つ、想像上の悪魔のシルエットを思い起こさせる。

 音のない世界に包まれた黒沢は、しっぽの付いたシートを、震える手で開いた。最下段を見た。水色の楕円で囲まれていたのは、三番目の経過観察だった。異常なしと支障なしは、無情にも消しつぶされている。弥生の症状が前年より一つ進行していることを示している。キーンと耳鳴りがしだした。

 弥生を見上げた。弥生は口元を手のひらできつく押さえたままだ。白目が赤く充血している。涙があふれだし、頬にこぼれる。黒沢は、弥生の涙を初めて見た。

 なにかを言おうとしているようだ。ふさがれた弥生の口は、必死に訴えようとしている。口をふさいだ手の甲を、涙が伝って流れる。涙の粒が、黒沢の机の上にぽたぽた落ちた。


(「弐の21 流行語は時代遅れ」に続く)

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