弐の18 良くない仕掛け
二人とも無言で病院に入った。前年はもう少し気が楽だったような記憶が、黒沢にはある。デートみたいだと弥生がはしゃいでいた。この日だって、学校を出発した直後は弥生もまだ明るかった。病院が近づくにつれ、弥生の話が重苦しくなってきたのだ。
受付で封書を差し出し、クリップボードを渡された。用紙には、今回も誰の名前も記入されていない。黒沢は、一行目に自分の氏名を、そして、少しためらったが二行目に弥生の氏名を強い筆圧で書き込んだ。弥生は後ろからのぞいていたが、なにも言わない。
前年と同じように《6》の扉の前のベンチに並んで腰掛け、黒沢が先に呼ばれて弥生に手を振り見送られ、採血されて、再び弥生に見送られ《2》の扉の方に行った。
小部屋でパソコン画面を眺めていたのは、前の年と同じ医師だ。
「先生。おれ、去年もここに呼ばれました」
「そうだね。カルテに記録が残ってる」
「どうなんですか」
「うん。血液が全身の血管を巡るんだけどね」
そう言いながら、医師はデスク上の棚から、ゴムかプラスチックで出来た手のひらサイズの血管の模型を取り出した。血管が固定されている台座に製薬企業の社名がエンボス加工されている。
「血がどろどろになると、こういう毛細血管がふさがれて、その先に行きわたらなくなるんだ。それで全身にさまざまな不調をもたらす」
太い管から細い管が枝分かれになっている模型を、医師はペンの先で指し示しながら説明する。
「やっぱり、多血症ですか」
「数値を見る限り、その疑いだね」
「去年と比べてどうですか」
「きょうの検査結果を見なければ、なんとも言えないな」
「レバーもあれから食べてません」
「レバー? ぼく、そんなこと言ったかな」
「おっしゃいましたよ。インターネットで調べて、水分補給にも気を付けてます」
「うん」
「治らないんですか。一生の付き合いですか」
「体質的なものもあるからね。ご両親とは、なにか話をした?」
「してません。するべきですか」
「いや。これまでの状態なら、しなくていい」
「遺伝ということでしょうか」
「そういう可能性もあるね」
医師は手に持っていた血管の模型をデスクに置き、改めて黒沢を正面から見据えた。
「あのね、黒沢裕太くん。きみたちはこれから、進学しても、社会に出ても、年を重ねても、それぞれの立場で、それぞれの年齢に応じた健康診断の機会がある。健診は毎回、必ず受けなさい。なにか病変の予兆があれば、体は危険信号を発する。それに機敏に対応して医療の管理下に身を置けば、なんら心配することはないんだよ」
「来年もここに来ることになるんでしょうか」
「ぼくはね、この仕掛けは実は良くないと思ってるんだ。再検査名目で病院に呼び出して、採血して、ぼくらが形だけの診察をする。この段階では手持ちの材料がないから、正確な診断やら、治療方針やらを示せない。検査結果が出ても、差し当たって問題がなさそうならほったらかし。これじゃあ、呼び出されたきみたちに無用な心理的負担を強いるだけだ」
「……」
「しかし、きみたちの学校が指定した健診メニューでそうなってるんだから、これは仕方がないことなんだ。罪作りだとは思うけどね」
「去年の結果は、支障なしでした」
「うん」
「異常なしとどう違うんですか」
「支障なしというのは、検査値がわずかだけ基準から外れている場合にそうカテゴライズしてる。基準に収まっていれば、異常なしの区分だね。だけど基準というのは、しょせん人間が便宜上、ここからここまでと勝手に設定した幅に過ぎん。ほんの少しそれをそれているからといって、決して異常とは言えない。だから、精密検査も治療も必要ないと判断した」
「今回も、支障なしでしょうか」
「スクリーニング検査では、そう驚くような数値は出てないよ」
「きょうの結果をまた待つしかないのですかね」
「その通りだ」
今回は三十分でも一時間でも弥生を待とうと黒沢は誓った。総合待合室の長いすの一番端に陣取った。弥生が通過していくのを見逃さぬよう、行き交う人の波をしっかり目で追った。
「黒沢くん」
思ったより早く、角から弥生が姿を現した。手には紙切れを持っている。ミシン目に沿って縁を切り取った検査結果のシートのようだ。
「あれ。もう結果、出たの」
そんなことがあろうはずもないのに、黒沢は思考が停止してしまっていた。
「違うよ。これ、去年のだよ。お医者さんに見てもらってた」
「なにか分かった?」
「ううん。あんまり熱心に見てくれなかった。でも、今回も去年と同じ傾向なんだって」
黒沢に前年話したレバーのことを医師は忘れていた。この仕掛けは良くないと言っていた。無用な心理的負担を強いるだけとも、罪作りとも言った。あの調子では弥生のすがるような思いを受け止められないのも無理のないことだと、黒沢は弥生をふびんに感じた。
「見る?」
「いいの?」
「いいよ」
黒沢は、弥生からシートを受け取った。開くと、黄色いマーカーや、えんぴつの芯の跡がある。黒沢は直感した。
「これ、保健室のおばはんにも見てもらったの?」
「マーカーでしょ。保健室の先生が印を付けながら説明してくれた」
最下段の所見は、黒沢と同じ《支障なし》だ。赤血球数、ヘモグロビン値、ヘマトクリット値がそれぞれ標準値を超えているのも、記憶の限り黒沢と同様だ。
ただ、それぞれの数値が黒沢のそれと比べて高いのか低いのか分からない。黒沢は、自分の数値を忘却のかなたに置いてきてしまっているし、検査結果のシートも、どこにしまったか分からない。
長いすの黒沢の隣の空いたスペースに、弥生も腰を下ろしている。
「六時間目、終わっちゃうかも」
「どうだっていいよ。涼んでゆっくり帰ろ」
「今年も、誰とも会わなかったね」
「だって学年で多血症気味なのは、おれと藍田さんだけだから」
「やっぱりそうなのかな」
「そうだったらそれでいいじゃん」
「それもそうだね」
弥生は両膝を伸ばし、前にある無人の長いすの座席の裏側を、履きならしたようなローファーのつま先で、まるで子どもがするように力なく蹴っていた。
(「弐の19 悲しいお知らせ」に続く)