弐の16 アニメのような跳躍
黒沢は覚悟していた。前年の二の舞を踏むことになるだろうと、負け戦の気分だ。ただ、弥生は救われるべきなのではないかといちるの望みを託した。前年の再検査結果をベランダで待つ姿や前月の理科実験室での表情を思うと、黒沢はいたたまれない。
しかし、願いはどこにも届かない。またしても、黒沢と弥生がそろって居残りを命じられた。
担任は、この春県内の別の高校から家族を伴い異動してきたばかりの、幼い子を持つという三十代の男だ。
「黒沢と藍田。二人とも前に来い」
終業のホームルーム後、一年のころの担任と同じように、二人を手招きして呼び寄せた。教室で着替える男の部活生は、女子優位の文系クラスのせいか絶滅している。
「血液検査ですよね」
最前列の席のいすを引きながら、黒沢は先手を打った。
「うん、よく分かったな。そうなんだよ」
「あああ。もう、嫌だあ」
弥生は、黒沢から一つ置いた席に倒れこむように着いた。
「おれたち二人とも、去年も再検査を受けさせられたんです。多血症だって」
「そうなのか」
意外そうに担任は口元をゆがめる。
「医者にかかってるのか。治療は受けているのか」
「おれは受けてません。再検査の結果は『支障なし』で、その後もなにも言われてません」
「わたしもなんにも」
弥生は机の上で左右の腕を組んで、それにあごを突き出し載せている。
「それなら手順は分かってるな。あしただ」
担任は、えんま帳を開いた。
「去年と変わっていなければ」
前年と同じように黒沢はかばんからレポート用紙を引っ張り出した。
「忘れようとしてたのにい」
泣き言めいたせりふを弥生は吐く。
「じゃあ、一通り説明するぞ」
担任が説明するスケジュールは前年と全くたがわず。出発時刻まで午後二時と二時十分と、寸分も変わらぬ徹底した行程を指定された。
五時間目の授業を、黒沢は午後二時ちょうどに抜けた。弥生は付いてこない。廊下で何度も振り返ったが、姿を見せない。
職員室で黒沢は自分の分だけ外出許可証を受け取り、朝のホームルームで渡された封書と一緒にズボンのポケットに突っ込んだ。
職員室を出て、弥生がこちらに向かってきているのではないかと長い廊下の先を見やったが、人影はない。
靴に履き替え黒沢は、弥生を待つべきかどうか思案した。弥生が前年と違って出発時刻を順守しているのは、黒沢に対する、先に行けという意思表示なのかもしれないと思った。
でも、待ってやろう。そのことがあだになったとしても構わない。黒沢は校門を出て校舎側から見えないよう門柱の陰に身を隠し、腕時計の針を確認した。炎天下だ。
きっかり十分後に、弥生は姿を現した。
「藍田さん」
「ひゃっ、びっくり」
まるでアニメーション作品の登場人物のように弥生は見事にはね上がった。
「待っててくれたの。ありがとう」
「先に行っちゃうとまた怒られそうだからね」
「怒りはしないんだけどさ。黒沢くん、また手ぶら」
「うん」
黒沢は、ズボンの右ポケットをぽんぽんとたたいた。
「相変わらずがさつというか、成長しないのねえ」
弥生は、きんちゃく型のトートバックを片手にぶら下げている。
「まあいいわ。行きましょ」
二人で歩きだした。弥生は歩きながら、トートバッグの口を縛った長いひも状の取っ手を右手の指に掛け、指を軸にして、遠心力でバッグごとくるくる回しもてあそんでいる。前年の轍を踏まぬよう、封書と外出許可証の入れ物としてしっかり準備しておいたのであろうと黒沢は思った。
「藍田さんは、成長したんだね」
「そうよ、わたしは大人になったの。看護学生のお姉さんたちにも負けないくらいにね。そういえば黒沢くん、お姉さんたちに耳たぶ触られながら鼻の下伸ばしてたでしょ。わたし、ちゃんと見てたんだから」
「おれも藍田さんのこと、ずっと見てたよ」
ちょっと驚いた顔で、弥生は黒沢の横顔を見上げた。
「うそよ」
「はい、うそをつきました。ごめんなさい」
「もおお」
弥生は、もてあそんでいたバッグの回転方向を変え、勢いを付けて黒沢の腹にぶつけた。
(「弐の17 バイクなんか乗りたくない」に続く)