弐の13 模擬試験の成績表
盆地が梅雨入りして少し経ったころ、終業のホームルームで、黒沢は居残りを命じられた。弥生と一緒だ。弥生の席を振り返ってみると、弥生は帰り支度の済んだ机の上のかばんに、顔をうつぶせている。
「それじゃあ、きょうはこれで解散。黒沢と藍田は、一人ずつ順番に、職員室に来い。黒沢からだな」
担任はそう言って、いつものようにえんま帳をとんとんと教卓上で整え、教室を出ていった。担任はなにも言わなかったが、弥生と二人だけ残されたから、市民病院で受けた再検査の結果に関することだろうと黒沢は確信した。
「藍田さん。おれ、先に行くよ」
黒沢は声を掛けたが、弥生は顔をかばんにうずめたままなにも言わず、片手を挙げて力なく振った。
廊下はホームルームを終えた自他クラスの生徒たちであふれ返り、遠くに担任の後ろ姿が見える。
職員室の冷房は止まっている。雨天で、初夏のころよりかえって気温が下がっているからであろうと黒沢は思った。担任は自分のデスクに着き、授業中も尻のポケットに差している愛用の扇子を開いて顔をあおいでいる。
「先生」
「おう、黒沢。『貧血検査』の再検査、結果が来たぞ。異常なしだ、良かったな」
洋封筒ほどの大きさで茶色いモザイク模様が全面に入った紙製の薄いシートをひらひらさせて、担任は黒沢に手渡した。
シートは二重構造で、三辺の縁にミシン目が入り、手で切り開いて中が見られる仕組みのようだ。中学三年のころ受けた、高校入試模擬試験の成績表を思わせる。茶色いモザイク模様は、中が透けて見えないようにするためのデザインに違いないと黒沢は推量した。
「ここで開けてもいいですか」
「なんだよ。藍田を待たせてるんだぞ」
「すぐに終わらせますから」
黒沢は担任の了解を得る前に、ミシン目に沿ってシートをべりべり雑に破った。開いてみると内側の面は、やはり模試の成績表と同じように、細かい欄で構成されている。各欄の左側に、検査項目と思われる漢字や片仮名、英字がびっしり並び、その右側に、黒沢のデータと思われる数字が、淡い水色のインクで打刻されている。しかし、それらが意味することは全く理解できない。
「先生、分かりますか」
検査結果が打刻されているシートを黒沢は担任に渡した。担任は片手で眼鏡のフレームをずらしながら、しばらく見入っていた。
「分からん」
脇に立ったままの黒沢の顔を担任は見上げた。
「だが、ここを見てみろ」
検査結果の一番下に、異常なし、支障なし、経過観察、要精密検査、要治療、治療中と列挙され印刷されているうち、異常なし、経過観察、要精密検査、要治療、治療中の五つが水色インクの二重線でつぶされ、二番目の支障なしだけが楕円で囲まれている。
「支障ないってことだな」
「先生、さっき異常なしっておっしゃいましたよ。異常なしと支障なしって、違うんじゃないんですか」
「ぼくたち教職員も毎年、健康診断を受けるんだよ。それで、これと同じような結果が返ってくる。精密検査とか治療とかが必要だったら、そう言われる。おまえの場合は経過観察にもなってない。病院からも、なにも言ってきてない。大丈夫だってことだ」
担任の説明に黒沢は納得がいかないが、弥生を待たせているから、それで引き下がることにした。
「分かりました。ありがとうございます」
「うん。藍田に声を掛けてくれ」
黒沢は担任に頭を下げ、職員室を跡にした。
教室には、更衣室で着替えを済ませたらしい、雨天でも活動できる屋内競技の部活生女子が出入りしている。弥生の席は、荷物はあるものの無人だ。
窓の外のベランダの手すりに両肘をついてもたれかかっている弥生の後ろ姿が見える。戸締りは誰かが済ませていた。ベランダに通じる扉だけが開いている。
「藍田さん、なに見てるの」
「雨」
「待たせて悪かったね。検査結果もらったよ」
「後で聴くわ」
弥生は振り返って、扉際にいた黒沢を押しのけ教室に入ってきた。前髪が雨で濡れている。濡れた手すりにもたれかかっていたためであろう、夏物のセーラー服の白いブラウスに、細かい泥が付いている。黒沢は、弥生が泣いていたのではなかろうかと心配した。教室を出入りしている女子ともなんら言葉を交わすことなく、弥生は一人で廊下に出ていった。
後で聴くと言っていたから、弥生の帰りを待つべきだろうと黒沢は観念した。弥生が放置していったベランダの扉を閉めて施錠し、自分の席に着いた。そして、先ほど受け取った検査結果を改めて点検した。
漢字や片仮名、英字で記された各項目には、よく見ると、それぞれの「基準値」が添えられている。黒沢は、一つ一つ基準値と自分のデータとを照らし合わせた。赤血球数、ヘモグロビン値、ヘマトクリット値が基準値をオーバーしている。
この数値のずれに担任は気付いたはずだ。しかし、なにも言わなかった。ただ、「支障なし」であることを指し示した。最初は「異常なし」と言っていたのに。「異常なし」という選択肢は、別途あるというのに。担任も、きっと病院からはなにも聴かされていないのであろうと判断せざるを得ない。
市民病院で医師から受けた説明を黒沢は思い出した。必要なら精密検査を受けてもらうと医師は言っていた。結果によっては次の手を打つとも言っていた。検査結果の、要精密検査と、要治療、治療中は、二重線で消されている。精密検査も次の手も、必要ないと楽観してよいものだろうか。
考えたが、結論は出ない。
部活生女子による教室の出入りは、すでに収まっている。廊下を歩く者もいない。弥生は戻ってこない。弥生が教室を出ていった時刻を、また確認しそびれていた。黒沢は、時間つぶしのためいつもかばんに放り込んである文庫本を取り出しページを繰った。なにも頭に入ってこなかった。
(「弐の14 宗教的な論争」に続く)