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  作者: 守尾八十八
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弐の12 腱鞘炎にならない

 家ではいつものように、母親が台所仕事をしていた。黒沢はかばんから空になった弁当箱を取り出し、大きな音を立ててテーブル上に放り投げた。そして、いつものように悪態をついた。

「こら、ばああ。おまえがレバーばっか食わすから、こっちは不治の病だぞ。重症患者なんだぞ。もうじき死ぬかもしれないんだぞ」

「どうしたの」

 母親はゆるりと振り返る。

「市民病院の医者に聴いてみろよ。これ見てみろ」

 黒沢は、ポケットの中のメモ用紙を丸めて、母親の顔をめがけて投げつけた。紙くずは、母親のエプロンの胸の辺りに当たって床に落ちた。

「あら、なあに」

 母親は腰をかがめてそれを拾おうとしたが、黒沢がすかさず寄って奪い取った。

「やっぱり見るな。誰にもなにも聴くな。レバーは金輪際、飯に出すなよ」

 黒沢はそう言い残し、二階の自分の部屋に駆け上がった。


 小学一年生の時に買ってもらった学習机に着き、自分専用のパソコンを立ち上げた。高校入試に合格した祝いに、パソコンか携帯電話を買ってやると父親に言われた。黒沢は、迷わずパソコンを選んだ。父親は意外そうな顔をしたものだ。

 パソコンは、インターネットに接続することはもちろん、ワープロソフトをインストールすることを切望した。

 黒沢は、パソコンのワープロ機能に無限の可能性を感じている。中学校で書かされ、授業では縁のない国語教師に褒めちぎられた読書感想文も、父親のパソコンを借りてさくさく推敲しながら完成させたものを、わざわざ学校指定の原稿用紙に手書きで写し取って提出したのだ。

 この魔法の機械があれば、すでに鬼籍に入っている文豪たちは、彼らの職業病だという腱鞘炎にも見舞われず、もっとたくさんの素晴らしい作品を残せたはずだ。そして、今度は自分がその役割を担わされている運命なのかもしれぬとさえ黒沢の意識は高揚する。だから、中学にはなかった高校の文芸部にはひとかたならぬ期待を抱いていたのだが、その的外れとしかとらえようのない活動状況を目の当たりにして、深く失望させられた。

 しかし、今の黒沢にとってそんなことはどうでもいい。インターネットの検索サイトを開き、知ったばかりのまがまがしいキーワードを打ち込んだ。

《多血症》

 何百万件もヒットした。

《血液は血しょうと呼ばれる液体成分と赤血球、白血球、血小板などの血球成分からなり、体内を循環しています。多血症とは血液中の赤血球が単位体積あたり増加した症候で、赤血球増多症とも呼ばれます》

《多血症は ①循環血しょう量が減少したために起こる相対的な多血症 ②循環赤血球量が実際に増加している絶対的な多血症――とに分類されます》

《相対的多血症はおう吐、下痢などによる脱水のために血しょう量の低下した見かけの多血症と、明らかな原因のないストレス多血症とがあります。ストレス多血症は赤ら顔で、肥満、高血圧があり、喫煙をしている中年男性によく見られ、多くは飲酒歴もあります。精神的な緊張状態にある場合に見られ、高脂血症、高尿酸血症などを合併する傾向にあります》

《絶対的多血症は、真性多血症と二次性多血症とに分類されます。真性多血症は赤血球がしゅよう性に増加したもので、白血球や血小板の増加も伴い、ひ臓の腫大が見られます。二次性多血症は高地居住者、過度の喫煙、心臓や肺の病気などで酸素不足をきたすことにより、腎臓で作られる造血因子エリスロポエチンの濃度が上昇して多血症になります。腎疾患やエリスロポエチン産生腫瘍が原因となることもあります》

《一般的な注意事項は、過労を避け、禁煙、アルコール制限を行い、体重、高血圧、高脂血症などのコントロールが必要です。また、多血症では血液が濃く流れにくいため、普段から水分摂取を心がけ、脱水症にならないよう注意する必要もあります》

《徳島新聞より転載》


 どのページを読んでも、ぴんと来ない。インターネットサイトから読み取れるのは、いずれも年を重ねた大人の症例ばかり。参考になるのは、普段から水分摂取を心がけ、脱水症にならないよう注意することくらいだ。

 確かに医師は、すぐ問題になることはないと言っていた。将来、いろいろな病気の危険因子になり得るとも言っていた。

 手足や言葉の自由を徐々に奪われながら最後には体の運動機能を全て喪失してしまう難病を中学生で発症し、二十五歳で亡くなった女性の実話『一リットルの涙』を黒沢は思い起こした。もっと昔の、骨肉腫で亡くなった二十一歳の女子大生と、その恋人との間で三年に渡って交わされた手紙を書籍化したという『愛と死を見つめて』のことも脳裏に浮かんだ。いずれも十代で発病し、若くして生涯を閉じている。二つの実話は、黒沢の心を強く震わせたものだ。

 結局こういうことだ。黒沢は、合点がいった。

『人間失格』と同じだ。第三の手記で書かれていることなんか、今の自分では想像も付かない。翻って、『一リットルの涙』や『愛と死を見つめて』は、病魔に侵された主人公と年齢が近いから、他人ごととは思えなかったのだ。

 第二の手記の年代である自分には、到底計り知れないもの。それでひとまず決着をつけることにした。

 ただ、レバーは食べないでおこう、なるべく水分を摂るようにしようと誓った。このことは、弥生と早急に申し合わせるべき重要案件なのかもしれないとも思った。


 覚えておきなさいよと脅し文句を残した弥生からはその後なにも言ってこないから、黒沢は血液検査のことをまた忘れてしまっていた。


(「弐の13 模擬試験の成績表」に続く)

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