弐の11 置いてけぼりの錯覚
学校には六時間目が終わる前に到着した。言われた通り、汗でよれよれになった外出許可証を職員室に返却し、なにごともなく受理された。職員室には、担任も、許可証を出してくれた理科教師もいない。
衆人環視の廊下を通って、教室に戻った。数学の授業が幕を下ろそうとしている。
「きょうは、とっても大事なところをやったぞ。課題も出すからな」
丸々一時間授業に出られなかった黒沢に、数学教師が嫌味を言う。
「はあ、すんません」
病院に行ったのは学校の指示だから、不可避な要素だ。しかし、弥生を待って戻る時間が遅れたのは、自分の意志によるものだ。黒沢はどう答えていいか分からなかったから、とりあえず謝っておいた。
弥生は戻っていなかった。チャイムが鳴り、数学教師が出ていった。それでも弥生は戻らない。
「クロ。病院、どうだった」
終業のホームルームに向け帰り支度をしていると、隣の席のボケナスが身を寄せてきた。
「やっぱり貧血だったのか」
「逆だとよ。これ、見てみろ」
病院で医師が書いて寄越したメモ用紙をズボンのポケットから取り出し、黒沢はボケナスに披露してみせた。職員室に返した外出許可証と同じように、用紙は汗を吸っている。
「多血症って、なんじゃこりゃ。血の気が多すぎるんだな。献血でもしろよ。ははは。おい、おまえら。クロのこれ、見てやれ」
ボケナスと黒沢の周囲に、男ばかりの人だかりができた。
「なんだよ多血症って。ははは」
みんなでメモ用紙を取り合って大騒ぎしていたのが、急に静かになった。くたびれたメモ用紙は、黒沢の手元に戻ってきた。男たちは、黒沢の後方をきまりが悪そうに見ている。
「ちょっと、こっちに来なさいよ」
黒沢は制服のシャツの襟を後ろから引っ張られ、一番上のボタンを掛けている部分がのどぼとけを圧迫した。
襟を引っ張ったのは弥生だった。黒沢は廊下に連れ出された。開放されている教室内が丸見えだ。みんな、かばんを机の上に置いて口を開き、机の天板下の収納スペースから教科書やらなんやらを移し替えている。
「なんで勝手に先に帰るの」
「待ってたんだよ。おれも今、戻ったとこ」
弥生は強く抗議した後、深くため息をついた。
「それで、お医者さんはなんて」
「赤血球が多いんだって」
「えっ、同じだ」
やはりそうだったかと、黒沢は弥生に親しみを覚えた。
「多血症だって。これでしょ」
ポケットのくしゃくしゃのメモ用紙を黒沢は取り出し弥生に見せた。
「書いてもらったの」
「もらった。もらわなかった?」
「うん、説明だけ。ヘモグロビンがどうとか血管がどうとか」
廊下のはるか遠方から、両隣のクラス担任と黒沢のクラス担任がそろってこちらに向かっているのが見える。
「おっさんたち、来てるよ」
「もう。ホームルームが終わったら、覚えておきなさいよ」
弥生は黒沢に置いていかれたことを腹に据えかねている様子だが、くるりと体の向きを変え黒沢に背中を見せると、肩を怒らせ教室に入っていった。黒沢もとぼとぼ付いていった。
席に着くと、隣のボケナスが小声で聴いてきた。
「弥生ちゃんもそうだったのか、多血症って」
「知るか。自分で聴けよ」
黒沢の声は思いのほか甲高く響き、ホームルームを始めた担任の心証を害したようだ。
「黒沢、なにかあるのか」
「ありません。すんません」
黒沢は、ずっと謝ってばかりのような気がした。
ホームルームが終わり誰かが居残りをさせられることもなく、担任は、最後に教室を離れる者は戸締りをするようにと申し付け職員室に戻っていった。覚えておけと言われたから弥生がさらになにか言ってくるだろうと黒沢は待ったが、弥生はほかの女子たちに捕まっている。
「耳たぶじゃなかったの」
「うん、こっちだった」
「痛そう、かわいそう」
「痛かったよ。かわいそうでしょ」
ばんそうこうを貼られた左肘を曲げたり伸ばしたりして、弥生は周囲の女子たちに見せている。慈愛に満ちたいたわられようだ。
教室の隅では部活生の男が、女子の目も気にせず着替え始める。弥生たちは、半裸の男どもが目に入らない様子で話にふけっている。待っていてもしょうがないと思い、黒沢はそのまま退散した。
帰路、行ってきたばかりの市民病院の前を通った。弥生を置いてけぼりにしてしまったことを黒沢は少し悔やんだ。そんなはずはないのに、まだ病院に弥生が一人寂しく取り残されているような錯覚に陥った。
(「弐の12 腱鞘炎にならない」に続く)