弐の9 悪筆で読めない
市民病院は冷房が効いている。幼いころ風邪をこじらせ何度か連れてこられたことを、黒沢は思い出した。数年ぶりに訪れた院内は、なんだか古ぼけた印象だ。
「あけぼの高校から来ました」
外来受付で、黒沢はポケットから封書と外出許可証を取り出した。外出許可証だけポケットに戻し、くしゃくしゃになった封書を両手でぱんぱんたたいてならしてからカウンターの上に置いた。
カウンターの向こうの女性職員が、用紙の留められたクリップボードを持ち出し、名前を書くようにと言う。用紙には枠線と罫線が引かれ、順番表のようだが、まだ誰の名前も書かれていない。
「藍田さんって、縄文時代、弥生時代の弥生だっけ」
「うん、ありがとう」
黒沢はボードにクリップで留められているボールペンで、一行目に自分の氏名を、二行目に弥生の氏名を記入した。後ろから弥生が黒沢の手元をのぞき込む。
「うわっ、きったない字。わたしが書いたと思われたらどうしてくれんのよ。それに、藍の字が違ってる」
「『青は藍より出でて藍より青し』の藍でしょ。こんなじゃなかった?」
「汚すぎて読めないよ、もう」
弥生は、自分のちょっとだけ折り癖が付いた封書を黒沢と同じようにカウンター上に置くと、黒沢からボードを取り上げた。そして、黒沢が書いた二行目の文字を上から二本線で消し、三行目に、《藍田弥生》と整った字で書いてカウンター上に戻した。
女性職員から、奥の六番の前で待つよう言われた。黒沢と弥生は、言われた通り院内奥に進み、大きく《6》と表示された扉の前の、ビニール張りのベンチに並んで腰掛けた。
「ほかのクラスの子たちは来ないのかな」
弥生の疑問で、黒沢は改めて気付かされた。
院内にあけぼの高校の制服を着た者は一人も見当たらない。ここに来るまで誰ともすれ違わなかった。しかし、再検査を命じられたのが全校生徒のうち黒沢と弥生だけというピンポイントなことはあるまい。
では、ほかのクラスや二年生、三年生の再検査組は一体どうなっているのか。別の日に指定されてでもいるのか。
あるいは、時間帯を著しくずらしているのか。しかし、もしそうだとしたら、黒沢と弥生の出発時刻の間隔を、同じクラスだからといってわずか十分だけに設定していることの合理性が失われる。
うまい返答ができない自分に黒沢はもどかしさを覚えた。そして、先ほど名前を記入させられたボードの用紙が、誰の氏名も書かれていない状態だったことを思い出し、言いようのない不安に襲われた。
《6》の扉は何度か開き、病院スタッフらしい白衣の女性や患者が出入りする。患者はほとんどが老人だ。
「黒沢裕太さん」
扉から出てきた女性看護師に呼ばれた。学校に来た看護学生と違い、頭にナースキャップを着けている。
「行ってらっしゃい」
座ったまま弥生が手を振った。「うん」とだけ答えて黒沢は看護師に連れられ《6》の扉を抜けた。その先にはさらに細い廊下が続いており、いくつかの小部屋の入り口にカーテンが掛かっている。
「こちらで採血をします」
小部屋の一つに通され、丸いすに座って両肘を見せるよう、その看護師に言われた。小さなテーブル越しに、肘の内側に看護師が軽く触れ、血管がより浮き出ている右肘が選ばれた。アルコール臭のする脱脂綿で広範囲に消毒され、注射器のような透明の管と細い管でつながった針を刺された。
予防接種で刺されたことがある注射針より太いようで、肉をえぐられるような不快な痛みがある。自分の真っ赤な鮮血が透明な管の中でほとばしるのを初めて見て、黒沢は気分が悪くなった。
針を刺される時より抜かれる時の方が不快だ。針で肉まで吸い取られたような気がする。
「ドクターからお話があります。二番の前でお待ちください」
注射針を抜いた傷口からまだ出血が止まらぬうちに、看護師は丸いばんそうこうを貼り付け、黒沢を小部屋から追い出した。
細い廊下を伝って、《6》の扉の前に戻った。弥生はまだそこにいる。
「おかえりなさい」
「まだ医者の話があるんだって」
「そうなの」
「二番に行けって言うから、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
弥生は、今度は手を振らなかった。黒沢が折り曲げ左手親指で内側を押さえる右肘を凝視している。不安そうな表情だ。
(「弐の10 医師にしつこく食い下がる」に続く)