07 ゴールデンレトリバー、飼い始めました
どれほど互いの話を聞きたい、打ち明け合いたい、いますぐ秘密を共有したいと切望しても、時間は有限。目が覚めた時には、昼食にも遅い時間で、慌ててお腹に詰めこめる何かをがあるか、冷蔵庫を探った。
結果発掘できたのは、冷凍させて小分けにしたご飯と、たまごと、ネギ、人参、しょうが、しめじ。あとはニンニクと玉ねぎが野菜室に入れない『その他』のかごの中で転がっている。
肉のない炒飯でいいかとフライパンを煽っていると、男はテーブルに肘をついて興味深そうにこちらを眺めていた。
「それ、俺の分もある?」
火からおろして皿に盛っていると、男がおそるおそるといった様子で聞いてくる。
何を言っているのだろうか。起き抜けに「腹が減った」と耳元でわめいていたのは、いったい誰だ。
「ちゃんとある。たくさん食べて。あなたがいなかったら、炒飯は作らなかったよ。あたし、寝起きはあまり食べないの」
男の前にスプーンと炒飯を置く。それより半分もない量を盛った皿を手前に置くと、男は「ありがと」と笑った。照れくさそうにしているのが、こそばゆい。
「なに飲む? 炒飯にアイスティーは嫌でしょ? 烏龍茶は切らしてるけど、ほうじ茶ならあるよ。麦茶も沸かせばあるし」
「アイスティーでかまわねーけど」
「そうなの?」
「ああ。っていうか、逆にアイスティーのなにが変なんだ?」
「なにがって……。あれ。そういえばなにが変なんだろ」
首を傾げると、ずきりと首の付け根が痛む。
気怠い腰のほかに、男に抱きこまれた体勢のまま眠る、という不自然極まりないポーズをシングルベッドで長時間続けていたせいで、首や肩、あちこちが痛い。
「うーん。なんとなく炒飯には烏龍茶な気がしてた。たぶん、最初に食べた炒飯が烏龍茶と一緒だったからもしれない」
「あんたんちのおふくろさんは、メシに合わせて茶を変えてくれるんだな」
「え? 母は料理しないよ?」
「あ? じゃー誰がメシを……いやそれはいーや。そんじゃ外食でってこと?」
「うん、そう。叔父さんが連れてってくれたの。中学生のころ、どうしても炒飯が食べてみたいってお願いしたんじゃなかったかな」
「へー……。なんかいろいろ突っこんで聞いてみてぇんだけど、時間がねぇな…」
床に転がる時計に目を眇めると、男は舌打ちした。
「仕事が終わったら、また来ればいいよ。待ってる」
大丈夫。断られない。
そう思いながらも、すごくドキドキした。
寝て起きてみたら、やっぱり違った。そんなふうに思っていたらどうしよう。でもきっと男なら、別れる間際まで、優しくて甘い夢を見せてくれるだろう。
冷酷で突き放すような言葉なんて、きっと投げかけない。
「…………いいの?」
スプーンをくわえたまま上目づかいで縋る姿は、従順な大型犬のようだ。
寝癖であちこち跳ねるダークブロンドの髪。
こういう犬がいた。
こげ茶色の垂れ目に黒い湿った鼻。ピンク色の舌を出してはっはっと息を切らす。耳がペタンとたれて、穏やかで賢くて好奇心旺盛で忠実な狩猟犬。
そっくり。口元がゆるむ。
「当然。言ったでしょ? 部屋にも人生にもいてほしいって」
「勢いに飲まれてんのかと」
「それ、あたしの台詞」
わざとらしく頬をふくらませてみせると、男は笑った。
よく笑う男だ。歯医者で見せていた、あの無愛想っぷりはなんだったのか。
夜学部の始まる時間と男の出勤時間はほとんど同じ。だからこそあの駅で男はあたしを見かけることがあったのだろう。
男は出勤前のヘアメイクに。あたしは実習の準備に。
「そんじゃ、また夜に」
頭にぽんと手をのせると男は駅前の雑踏に消えた。
その日の実習は、顎模型をテーブルに載せてのスケーリングだった。あたしは歯根に印したピンク色のマニキュアをうまく消すことができなかったのに、ずっとヘラヘラしていた。
同じ実習班で隣の席に座るのは、歯科助手として数年働いている、あたしよりいくつか年上の優しい人で、彼女はあたしの手元を見て、それからあたしの顔を見て、おっとりと微笑んだ。
「手に持ってるそれ。プローブよ?」
歯周ポケットを測るためのプローブ。その目盛りにはところどころピンク色のマニキュアがまとわりついていた。