03 ハンフリー・ボガートと父親
伯母さんは診療後、休憩室で就業時間までお茶を飲んで待っていてくれた。保護者代わりの叔父さんがあたしに釘を刺すのに庇ってくれるため。
「あの男はやめなさい」
叔父さんは難しい顔をして切り出した。
「こんな言い方はあまりしたくないが。彼ときみは、見てきた世界がちょっと違うよ」
「見てきた世界ですか」
「うん。きみは良くも悪くもお嬢さんだからね。今だってアパートで一人暮らしとはいえ、定期的にきみのご両親から人が遣わされてくるだろう。きみがちゃんと生活できているのか、あらゆる手助けをしてくれているだろう。微力ながらぼくも叔父として、きみを見守っている」
「はい」
「それはきっと、彼と価値観を異にするものだろう」
「そうなんですか」
彼等は訪ねてきては、特に何をするでもなく帰っていくのだけど。それでも確かに、あたしの生活の様子をつぶさにチェックし、身の安全を講じ、両親にはそれらを報告しているのだろう。
それにここの歯医者には残業なしとはいえフルタイムで働きに通っているし、叔父さんとは休日以外のほとんど毎日、顔を合わせている。そして何くれとなく力になってくれる。
「最初のうちは、きっと楽しいのだろう。だけど、そのうちに埋めがたい溝ができるものだよ」
「それはあなた。充がかつてそうだったようにかしら?」
湯吞みを両手で包みながら、のんびりと伯母さんが言った。
「姉さん……」
眉尻を下げた叔父さんは、腕を組んだまま情けない様子で伯母さんを見る。伯母さんは湯呑みを机に置くと、にっこりと笑った。
「あなたが意気地なしで駆け落ちをやめてしまったことと、そのくせいまだに引きずって独身を貫いていることと、この子の恋とは関係がないと思うのよ。この子はようやく過保護で傲慢な両親や叔父だけの狭い世界でなく、同じ年頃の青年に興味を抱いたの。素敵なことだわ。
うまくいくかいかないかなんて、あたくし達が経験論を振りかざして押さえつけるのは、よっぽど残酷なことよ。傷つくことから守ろうとあなた達は手を出しすぎなの」
「過保護で傲慢というのは、賢治兄さんだけでなく、ぼくにもかかっているのかな?」
「ええそうね。あなた達二人とも、方向性ややり方は違うけれど、この子を自分達の好きなように扱いすぎだわ。賢治はこの子を支配しようとして、充はこの子の自主性だけを認めて。この子は主体性を習得できないままだったわ」
賢治。久しく耳にしなかった父の名にびくりと肩が揺れる。叔父は気の毒そうにあたしに横目をよこす。
「そうは言ってもね。下世話な話だが、彼がこの子を気に入った理由に、金銭の問題がないとは思えないじゃないか」
叔父さんの言葉に、急に心臓が氷みたいにカチコチに冷えた。
それはそうだ。なんだってあんなに急に、絡んできたのかと思えば。あの男は言ったではないか。「いいとこのお嬢さんなんだな」って。
つまり頭が弱そうで資産を持っていそうで、さらに異性経験に不慣れそうで、男の美貌や無邪気で屈託のない笑顔に、チョロチョロのチョロインでよろめいている浮かれポンチだという、都合のいいことこの上ないのがあたしだったということだ。
最初はずっと無口無表情だったのに、突然犬みたいな無邪気な笑顔を見せて懐いてきたかと思ったら、ヤンキーっぽい見た目で、三島由紀夫だなんて言い出して伯母さんウケまでゲットして、綺麗な発音の英語を披露して。しかも有名(?)なミュージシャンの私生児。らしい。
なんじゃこりゃ。
いかにも罠にはまってくださいと言いたげだ。あからさまに怪しい。
三流詐欺師の手管なのに、あたしはすっかりどきどきしてしまっていた。
バカバカしいことに、そうまで判明しても、いまだにあたしはどきどきしてしまって。惹かれていて。
それでもいいじゃない、なんて騙される女のよくある口上を本気で思っちゃっていることだ。
「金銭のみで解決できることならばまだいいが、世間知らずのこの子に、彼が何を見ているのか……」
「あらまぁ。充も世慣れたことを言えるようになったのね」
「からかわないでくれるかな?」
だから叔父さんと伯母さんの会話は頭に入らず、通りすぎていくだけで、なにを言わんとしているのか、その意味は考えなかった。
アパートに帰って雑誌をめくると、男をもう少し彫り深くさせて、あと一回り半くらい年を重ねたらこうなるんじゃないかというような、神に愛されし野生味を帯びた美中年が、ギターだかベースだかを抱えてこちらを見下ろしていた。
記事を読めば、女性ボーカリストをフロントとした、アメリカのロックバンド、そのギタリストだった。本国では中堅どころらしい。日本での知名度はこれから。映画の主題歌に起用されたから、爆発的人気になるだろう。そんな希望的観測と、大袈裟で誇張された、よくある売り出し文句。
インタビューのおおよそはボーカリストのものだったけれど、男の父親と目されるギタリストもすこしだけ答えていた。
―――日本に滞在していた期間があると伺いました。
ジョン 「若い頃にね。モデルをしていたこともあるよ。君ももしかしたら見かけたことがあるかも。下着姿でボガート・スタイルをしていたのが俺さ」
―――(笑)。モデルといえば、(某有名ブランド)のモデルに抜擢されたとか?
ジョン 「もう知っているの? 耳が早いね!」
―――こちらが刊行される頃には公式発表されているでしょうか。
ジョン 「どうだろう? 俺のモデルキャリアは下着と縁があるらしい、とだけ(ジョン、内緒にしてね、とウィンク)。ありがたいことだと思うよ。いつかはトレンチを羽織って紙巻きたばこをふかせてもみたいな」
―――ファンはあなたのニュースタイルを心待ちにしていると思いますよ。だけどあなたの『アズ・タイム・ゴーズ・バイ ※』の弾き語りも是非お聞きしたいですね。
※ ハンフリー・ボガート主演映画『カサブランカ』のテーマ曲。
ジョン 「本当に? 彼が許可してくれるなら(ジョン、マネージャーを示して)いつでも披露するよ。ピアノは弾けないから、ギターでいいかな?」
―――是非。お願いします。
(ジョン、にっこり笑ってギターを取り出し、ジャジーに弾き始める)
ジョン 「どう? これで『カサブランカ』のリメイクにオファーされるかな」
雑誌は四年前に刊行されていた。
男と男を認知していないロックスターの父親。似ているな、と思って、すぐに頭を振る。似ているんじゃない。男が真似をしているんだ。きっと。
男と初めて会ったのは、歯医者ではなかったことも思い出す。大学の合格発表を見に行って、見事桜散った日。男は駅前でギター片手に一人、路上ライブをしていた。
立ち止まる人はあまりいなくて、かき鳴らされるギターもうまいわけじゃないし、歌声もぱっとしない。曲はオリジナルなのかコピーなのかわからない。
改札を抜けて、演奏が耳に入って。なんとなくそこに立ち止まってから、男は英語の歌詞の曲を二曲くらい歌った後、最後に『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を演奏した。
こことは違う駅に降りて、わざわざ訪ねたブルーボトルコーヒー。そこで買ったコールドブリューを片手に、聞き入るわけでもなく、ぼんやりと男が演奏を終えるのを眺めていた。
ぱちぱちぱち。
まばらな拍手が起こり、男が頭を下げる。
「ありがとーございました。お気持ち、ギターケースに投げ銭お願いします」
女子高校生だろう制服を着た可愛い女の子たちのグループが、男に話しかけていた。ああかっこいいもんな。そんなことを思いながら、お財布から壱万円を抜いて、ギターケースに入れた。帰ろうと踵を返すと、「ちょっと待て!」と低くて厳しい声がかかって、それが怖くて振り返らずに駅へと早歩きで向かった。
女の子たちの華やかな声と、駅前の喧騒。
咎めるような怒声は溶けていき、帰宅した頃には、不合格を告げなくてはならない憂鬱になにもかもを支配された。
夜勤の母はその日帰らず、父に謝罪をすると「合格するとは、もとより考えていない」と言われた。
それなら、なんで受験させたんだ。訊くのはやめておいた。