01 キラキラマン、歯医者にあらわる
男との出会いは歯医者だ。正確には違うけれど。互いに認識したのは歯医者。
あたしは叔父さんが院長を務める矯正歯科医院で歯科助手をしている。
我が家は医者一族で、医学部に入れなかったあたしは、いないもの扱い。
医者以外は人ではない。そんな家だ。
そのうえで、その医者にも優劣があって。歯医者の叔父さんは一族の外れもの。
まぁ、そんなこんなで、一族のアウトサイダーな叔父さんは、幼い頃からどうにも不出来なあたしを拾ってくれた。
あたしは真面目なバカというやつで、一生懸命勉強するのだけど、てんで駄目なのだ。
いくら詰め込もうと、器が小さすぎて全然入らない。あふれてこぼれて、時間もお金も、波打ち際でお城作りをしているかのように、すべて流され、サラサラと砂に返ってしまう。つまり無駄。
頭のいい両親が頭の悪い娘に見切りをつけるのは、当然早かった。
それを特別悲しく思わないで済んたのは、叔父さんがいてくれたから。叔父さんはあたしの大恩人で、お父さんでお母さんなのだ。
だから叔父さんの役に立ちたくて。叔父さんの歯医者で働きながら、歯科衛生士学校の夜間部に通った。ゆくゆくは認定矯正歯科衛生士 1級資格もとれるといいよねって叔父さんと話しながら。
歯医者で働く毎日は、とても充実していた。
叔父さんも、長く勤めている歯科衛生士さんも優しくて、ときどき厳しくて。存在を許されて、認められてる。それってとても嬉しいことなんだと思った。
あたしに関心の薄かった両親だけど、それでもちゃんと衣食住に困ることなく育ててくれた上、餞別代わりにアパートをぽんとくれた。
不動産経営なんてしたことがないから、ちょっと困ったのは内緒。でもない。叔父さんも苦笑してた。「不器用な人たちだ」って。
歯科助手と夜間学生とアパートオーナー。三足のわらじ。ぜんぶ若葉マークつき。
そこにキラキラマンが現れた。
男は歯並びをよくしたいとやってきた。もともと悪くはなかったけど、芸能人みたいに完璧にしたいんだって。
やたら見目がよくって日本人のハーフなのか白人なのか、ぱっと見てわからなくて、チャラチャラした格好。だけどムスッとして、愛想笑いのひとつもしないし、返事も返してくれてるのかしてくれてないのかわからなくて、何度も聞き返すのも気まずいしっていう患者さん。
保険証は国民保険。社保じゃない。それでもってめちゃくちゃ日本名。
見た目も派手だし、自由人ってやつかな、と勝手なことを考えてた。あとは、とんでもなくかっこいいな、と思った。
チェアに寝そべって、パカーンって口開いてもらったあとは、かっこいいとかかっこ悪いとか、そんなことは頭から消える。
その日は、男の前の時間枠の患者さんが遅刻してきたことで、治療がずれ込んでいた。
予約時間から10分以上遅刻したら、次の予約とって帰ってねって建前はあるけれど、忙しい中、午後休とってやってきたなんて言われれば、「遅れたんで今日はキャンセルですねー」なんて言えっこない。
しかもインプラント込みの矯正治療。
自費治療の弊害でもなく、院長の叔父さんの指示でもなく、あたしの小市民的で卑屈な精神が、お金のなる木はお大事にー! と叫ぶのだ。
三台あるユニットのうち、一つは空いていたし、次の患者さん――キラキラマンはリテーナーのチェックだけだった。叔父さん先生がリテーナーの最終チェックをしにチェアにくるまでの間、口腔内清掃していれば、時間は埋められるだろう。
受付から男の名を呼ぶと、ドクターチェアに腰掛けた。
「こんにちは。お加減いかがですか?」
「……っす」
うっすってなんだ。答えになっとらんわ。
「お変わりないようでよかったです。リテーナーお預かりしますね」
かっこいいけど、感じ悪い。かっこいいけど。
面食いで妄想ばかりが得意。実際の恋愛はしたことがない。
だからかっこいい患者さんについて、笑顔はどんなかな。案外可愛い感じだったりして。なんて妄想を巡らせながら、この日も応対していた。
預かったリテーナーと消毒液を容器にちゃぽんと入れて、超音波にかける。
それから研磨剤、ポリッシングブラシにラバーカップをそれぞれの棚から出して、ユニットに戻った。
アシスタントチェアすぐそばのキャビネットからフロスも取り出してメインテーブルに置き、ドクターチェアに腰掛ける。
ユニットに備え付けられた液晶モニターは、昼間のワイドショーを小さな音量で映し出していた。
「まずはお口の中、お掃除しますね。お椅子倒します」
ぐるんとドクターチェアを回転させ、ユニットを平らにするボタンをぽちり、と押す。ぼんやりいつもの流れ作業の感覚で、ユニットを倒す前の男が何してたかなんて、全然見ていなかった。よく考えなくてもおそろしい。初歩的なミス。
「おわっ」
「え?」
慌てて焦ったような声に驚いて振り返ると、男の手から雑誌が滑り落ちた。音楽雑誌。うちの歯医者に置いてる雑誌じゃない。叔父さんは海外のロックはビートルズくらいしか聞かないし、そもそも置いてある雑誌は『家庭画報』や『オレンジページ』だとか、あとは週刊誌に旅行雑誌の類。尖った格好の若者が一面に載った雑誌なんて、一冊もない。
「ごめんなさい。ちゃんと見ていなくて……」
ユニットをもう一度起こしてから、慌ててグローブを外して床に落ちた雑誌を拾う。
医療機関にとって床って、ものすんごい汚染区域らしい。やっちゃったな、と泣きたくなる。
「…………いや。いっすよ」
二言。これまでで一番長く話してくれたかも。
「あの。でも床って汚くて……。病院の床って、ダメなんです。すごく汚くて」
患者さんの様子を見ないでチェアを倒してしまったこと。雑誌を落としてしまったこと。学校で習った、不潔域と清潔域のこと。このまま雑誌を手渡していいのかわからないこと。
男が口を開いてくれたこと。その声が、優しかったこと。
頭の中が大恐慌で、ほっぺたは大火事だった。マスクしていてよかったな、と役に立たない頭がそんなどうでもいいことをまた一つ、思考した。
「へぇ。そんなきたねぇんだ?」
だから、からかうような調子で続いた男の声にすっかり舞い上がって。
「は、はいっ! えっと、不潔域…じゃなくて汚染区域? とかってやつで。あの、いろんな人が通るし。歯医者って唾液とか血液とか飛んでるし。飛沫汚染とか。そういうので」
「へぇ? そんじゃこの椅子もきたねぇんじゃね?」
男がユニットの背板を指差すから、あたしは慌てて。
「いえっ。ちゃんとお一人の患者さん……じゃなかった。患者さまがお帰りになったら、消毒してますっ! あの! 『すたんだーどぷりこーしょん』です!」
一生懸命、ちゃんとキレイにしてるよ! うちの歯医者は感染予防対策しっかりしてるからね! のアピールをしていると、男は身体を屈めてブハッと盛大に噴き出した。
「ぶっ! くく……! オネーサン、オベンキョ頑張ってんだね。あんま俺、そういうのわかんねーし気にしねぇけど。すげぇ丁寧に説明してくれて、ありがと」
「い、いえ……」
雑誌を手にしたまま、モジモジとしていると、男はこれまでの無表情はなんだったのかというくらい、人懐っこく笑った。眩しい。
イケメンの笑顔、まさに殺人兵器。
「俺、バカそうに見えるじゃん?」
「そ、そんな……!」
うん。ごめんね。人のことは言えないが、どちらかというとオツムは軽い方かと思ってました。
「隠さなくていーから。俺もあんたのこと、ツンケンして、金持ちっぽくて、高慢な、いけすかねぇ女だと思ってたし。おあいこってことでさ」
「お、おお……。高慢……。初めて言われました…」
「あんた、黙ってるとすげぇエラソーな感じだぜ?」
「…………あなたに言われたくないです……」
「ぶはっ! お、おまえ、患者に向かって、それはねーわ!」
大きな身体を揺らしてヒイヒイ笑う男。
恥ずかしくて、イラッとして。何よりもどうしようもなく浮かれ上がる馬鹿な女のお手軽さに。しっかりしろ! チョロすぎる! と自分を叱責するけど、でもかっこよくて。少年みたいな、犬みたいな無邪気な笑顔に、ものすごくエラソーな俺様な感じだとか。
どうしようもなく惹かれているのがわかった。
それに『おまえ』って。初めて言われた。父親だって『おまえ』なんて言わなかった。『きみ』とか、『あなた』とか。そういえば名前で呼ばれたこともほとんどない。
「いや、人は見かけによらねぇな。てっきりあんた、ここの院長先生のお嬢さんで、結婚前の腰掛けにイヤイヤやってんのかと思ってたけど」
そんな風に思われてたのか。
だからあんなに塩対応だったのかと納得する。そういえば、叔父さんと歯科衛生士さんには、それなりに普通に喋っていた。愛想のいいタイプではなかったけど。
「あんた美人だし。俺みてーなバカそうな男、見下してんだろーなって」
「見下すなんてとんでもないこと―――えっ。美人ですか」
思わず聞き返すと、男は目を丸くした。
「美人じゃん。それも滅多に見ねぇような、すげぇ美人だけど。……言われたことねーの?」
「はぁ。初めて言われました」
「まじで? え? あんたの周りの男、ブス専しかいねーの?」
「うーん……。叔父は可愛いって言ってくれますけど、身内ですし……。いやでも、父からは愚鈍な顔つきが鬱陶しいとしか言われたことがないですし……」
「は? あんたの親父さん、クソじゃね? っていや。男って、そうじゃなくて。付き合ってるやつとか、告ってきたやつとか、そーいうの」
「いません」
「え?」
「親族と学校の先生と、患者さん。それ以外で私的な関係の男性はいません」
自分で言っていて虚しい。なんて枯れた女なんだ。
世の中の娘さん達はキャッキャウフフと咲き誇っては、青春を謳歌しているというのに。
「女子校育ち? なんかこう、あれ。エスカレータ式みたいなやつ」
「はい」
「…………あんた、やっぱいいとこのお嬢さんなんじゃん」
「そうですね。『いいとこ』と明言するには躊躇いますが、家はそれなりかと」
「あっそ」
男はまた急にそっけなくなって、黙り込んでしまった。あんなに屈託なく笑ってくれていたのに。
胸がぎゅうっと痛くなって、でも彼はお喋りにきたのではないから。患者さまなのだから。
「あの。雑誌どうしましょう。消毒スプレーでいいですか?」
「あげる」
「え?」
「あんたにあげる。それ」
こちらを見るでもなく、投げやりに言い捨てられた言葉。
「あ、ありがとうございます」
戸惑いながらもお礼を言ったけれど、男は何も言わなかった。
雑誌を持ったままでは何もできないから、断りを入れて休憩室のロッカーへ雑誌を置きに行く。戻ったときには、男のユニットの傍で、すでに叔父さんがドクターチェアに腰掛けていた。
あたしは手を洗って、新しいグローブをはめた。それから超音波にかけていたリテーナーを容器から取り出し、消毒液を流水で洗い流した。