12 本営と宿カノと本カノって見分けるの、無理ゲーですし
「『タクミさん』担当というホス狂いさんから、『ミツル』の『宿カノ』はやめとけって言われたよ」
「は? 誰が? どこで? つーか宿カノじゃねーよ!」
みそ汁をよそう男の手が止まる。
しじみの味噌汁。「酒を飲んだら、翌朝はしじみの味噌汁だ」の台詞を何度聞いたことか。だから男がごはんを作ると、毎回しじみの味噌汁が出てくる。
今晩は仕事がないから。そう言って、しじみ信者の男はあたしの部屋で夕飯を用意して待っていた。
「駅前。歌ってたとこ」
「あー。あそこか……」
「『ホストなんかクソ』って言ってた。沼になる前にやめとけって。ぴえん系の華奢で可愛いこ」
「そりゃユミだな」
塩と胡椒を振ってグリルで焼いた手羽中がテーブルに並べられる。お皿の隅にはくし形切りのレモン。
「まぁホストがクソなのは、あいつの言う通りだよ。俺が言うのもなんだけど、ホストなんかろくなもんじゃねぇ。ハマったら地獄じゃねぇ? 色恋、エゲツねぇしな」
男が片手鍋のカボチャの煮物に火をかけた。昨日の残り。タッパから移し替えたのだろう。
あたしは冷蔵庫を開けて、タッパを取り出した。韮と人参とモヤシとキクラゲのナムル。こちらも昨日作って余った残り。菜箸で小皿に盛りつける。
「おまえも飲む?」
冷蔵庫から缶ビールを取り出して振り返る男に首を振る。
「ううん。いらない」
「っそ。んじゃ俺も一本にしとこ」
男がプルタブに手をかけると、ぷしゅりと魅惑的な音がした。
「…………やっぱりあたしも飲む」
男は薄く笑って、缶からトクトクと2つのグラスに注いだ。お揃いのフロスト加工のビアグラス。「缶ビールを缶のまま飲むなんてクソ」という男のこだわり。
特に何も文句をつけていないのに、男は自分の主張をあたしに納得させようと、飲み比べさせた。缶のままで飲むのと、グラスに注ぐのと。そのときの男の熱の入れよう。
キラキラと目を輝かせて語るのが可愛くて、思わず笑ってしまうと、男は拗ねるように口を尖らせた。
けれどすぐ気を取り直して、グラスへの注ぎ方もレクチャーしてくれた。丁寧に何度も教えてくれたけれど、あたしが注ぐとどうにも泡だらけになってしまう。そのうち見かねた男に「酒は俺に任せて」と役を奪われる。
慣れた手つきで、男はビールの泡の黄金比を作り出している。
これもまた「黄金比って、それがうまいって意味じゃねーけどな」とウンチクを語ってくれたことがあった。なんだかんだと博識な男だと思う。ホストならではの雑学なのかもしれないけれど。
目の前にグラスが置かれて手に取る。かちゃん、と小さくグラスを合わせ「カンパイ」とあたしが言うと、男は「お疲れさん」と返した。
ごくりと喉をならして飲む男。いつ見ても見惚れてしまう。
ぼうっと眺めていると、男はテーブルの向かい側から長い手を伸ばしてきて、ホッペタを引っ張った。
「こら。何考えてんだ?」
「かっこいいなぁって見とれてた」
虚を衝かれたように目を丸くする。そして困ったようにへにゃりと笑った。
「ごめん。いやだった?」
「いや。おまえに言われるのは嬉しいよ」
額面通り受け取っていいものか悩んだけれど、素直に頷くことにした。
男がこの美しい顔のせいで被ってきた被害は甚大だろう。享受してきた幸運や機会も同様。
しかし男が美貌を持たずとも、似たようなことは皆きっとある。それを『ボクチンとアタチだけの可愛い可愛いカワイソウな傷』だと宝物箱に大事にとっておくかどうかで。
大事なことは、男が宝物箱にしまったセミの抜け殻を丁重に扱いたがっているのか、あたしに見せびらかしたがっているのかどうか。
「いつまでも見ていたい。あなたほどかっこいい人は見たことがない」
「そりゃよかった。俺もおまえくらいの美人は見たことがねーよ」
視線が重なり、じっと見つめあう。男の神秘的な色の瞳の中であたしがニヤけていた。
「っても見すぎ。恥ずかしーだろ」
かさついて太い指に小鼻をつままれ、すこしだけ鼻水が出る。「きたね」なんて笑いながら、しかしもう一度ぎゅっとつままれる。
「ひょっと」
間の抜けた抗議の声をあげると、男は親指で鼻水をぬぐった。ちょっとむっとしてテーブルにあるボックスティッシュを目の前にたぐり寄せ、男の手が届かないようにボックスティッシュを腕で囲いこむ格好で鼻をかんだ。
「こっちにもくれ」
手をひらひらとさせている男を睨みつけると「あっそ。じゃーなめるか」なんて親指を口元にもっていこうとするので、慌ててボックスティッシュをスライドさせた。くつくつと笑う男に、なぜあたしがダメージを受けなくてはならないのか、とテーブルの下で男の脛を蹴った。
「ユミはタクミの太客だけどさ。あいつ専門学生だったんだよ。保育科の。ちっちぇ頃からの夢だったんだってさ。保育士になるの」
男に腕枕をしてもらいながら、そのぶ厚い胸に体の半分をのせる。汗ばんだ体は少しずつ熱が引いて、だけど触れ合うところはまだ熱い。呼吸に合わせて挙上する胸が心地いい。
「なのにタクミに好かれてぇってなって、太客んなって使う金がどんどんデカくなって、キャバ嬢んなった」
薄暗い部屋の中。ドレープカーテンの隙間から、街灯のたよりない光やときおりアパートの前を走っていく車のヘッドライト。男の端正な横顔は表情を変えずに光と影がときおり揺れて、人形のように造り物めいている。
「そんでも売り掛け払えなくなって、終いには風俗落ち。そこまでやっても、ユミはNO.1のタクミのエースじゃねぇし、タクミは他の店の嬢と付き合ってる。これが異常だって自覚できてるうちにおまえと会えてよかった」
「…………ユミさんと寝たって……」
「気になる? ユミと寝たのは、あいつが風俗落ちする前日。可哀想だと思った。お互い後腐れねぇのもわかってたし」
腕枕はそのままに男が態勢を変えて、あたしは男の胸のうちから落ちそうになり、腰に回された腕で抱きかかえられる。目を覗き込まれキスをされた。男は困ったように情けなく眉尻を下げる。
「おまえとこうなってから、他の女と寝てない。枕もしねぇ。これまではタダでできる性欲処理してただけだし」
最低だ。
ユミさんの言う通り、これでは確かに『クソ』だし、くず。ずいぶんな言い分。
それなのに男の瞳に映るあたしは、眉根を寄せて軽蔑してみせたり、目を吊り上げて怒ってみせたりするのではなく、口もとが緩んでしまいそうになるのを我慢して、気色悪い風にニヨニヨとしている。
くちびるを噛んでごまかすけれど、鼻の先がくっつくくらいの距離で、あたしの心臓が刻む鼓動も体温も伝わっている男には、なんの効果もないだろう。だって男はあたしを見て、ニヤニヤとしているし、腰に回した腕はざわざわとあたしのあらゆるところを手繰ろうと、いやらしい動きをし始めた。
腕枕をしてくれているはず大きなてのひらが胸の先にまでおりてきたところで、男の手首を掴んだ。男が首を傾げる。
「『ミツル』は気まぐれだから、飽きたらすぐ捨てられるって言われた」
責めるような声色を作ってみせると、男は嫌そうに小さく舌打ちする。
興が削がれてしまっただろうか。大きく息を吐きだす男を見上げる。
「ユミの言う通り、俺は気まぐれだし勝手だよ。だからいつかおまえが俺に愛想尽かすかもしんねぇし、俺もおまえに飽きるかもしれねぇ」
心臓がぎゅっと一気に縮み上がる。そんなこともあるだろうと覚悟はしていた。だけど男の口からは聞きたくなかった。
目頭が熱くなる。男の顔を見ていられなくて、男の鎖骨のでっぱりにぐりぐりと頭を擦りつける。頭のてっぺんでふと空気が揺れる。
「でも今はおまえだけ。飽きっぽくて根性なしの俺が一年半も待ったんだ。離すわけねぇだろ。ふざけんな」
ぎゅっと抱き寄せられ、互いの体がより密着して、男の興が削がれきったわけじゃないと太腿で確認した。その事実に安堵して、ズルくて面倒な女を延長する。
「あたし、宿カノではないってこと?」
「ざけんなよ。今さら何言ってんだ。当たり前だろ」
男の語気が強まる。だけどすぐに、いまだ躊躇いがあるかのように、弱弱しい言葉。
「……あのさ。俺、ホストやめようと思って」
信じろとも言ってくれないし、この先を誓ってくれるわけでもない。
アポロンみたいだ。本当に。
それなのにダフネは アポロンの『他の女と寝てない。枕もしねぇ』に浮かれきってしまう。ホストをやめる。それはあたしのため?
あたしはダフネのように、潔くドリアードにはなれないし、結局のところ、なりたくないのだ。
「おまえさ、夜学に行くのに別の駅って使えない?」
遠回りになりすぎて間に合わない、とこたえると、男は少し考えてから、「就業時間に歯医者まで迎えに行く」と言った。
「出勤時間とほとんど同じだし。それにもうすぐ辞めるしな」
「迷惑じゃない?」
「全然。出勤前におまえの顔見られたら、クソみてぇな仕事も頑張れる。むしろ俺みてーなチャラチャラしたのが、職場近くでうろちょろしてる方がおまえの迷惑になんねーの?」
仕事終わりの汗をかいて化粧の崩れた姿で男の隣に並ぶのはすこしだけ恥ずかしいけれど、男が迎えに来てくれるなんて。そんなご褒美、嬉しくないはずがない。
「ううん。すっごく嬉しい。歯医者の前まで来てほしいくらい」
「…………院長先生に、もういっぺん挨拶しねーとなあ…」
叔父さんは医師と患者としてならば、愛想よく男と会話をする。けれど男がその線を踏み越えようとすると、途端にシャッターを下ろしてしまうのだ。
歯医者の休診日。前日に叔父さんにはお邪魔することを伝えておいた。男と一緒だということは言い忘れていた。
男とともに訪ねると、叔父さんは一人暮らしのくせに「家主は留守にしています」とインターフォン越しに裏声を駆使してきた。あまりに無理やりな裏声の、そのあからさまで間抜けな様子に、男と目を見合わせてしまった。
それからというもの、男がひと月ごとのリテーナー調整に訪れても、叔父さんは頑として『医師と患者』以外の会話を交わそうとしないのだ。
「まあ、このまんまでいいわけじゃねぇしな。院長先生は、おまえの大事な家族なんだろ?」
男は今夜も『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を歌ってくれた。