09 月桂冠をあなたに
物語はたいてい、最初の一文で読者を惹きつけられなければ、そこで幕を閉じる。おしまい。バイバイ。
だから男はあたしに興味を持った。じゃああたしは?
男に初めて会ったのは、駅前の路上演奏。思い返せば運命的な出会いだったと言えるけど。
あたしは男よりずっとゆっくりと男への興味を引き出されて、そして今や、まったくの夢中。
男はアパートの空き部屋に住み着いた。
そこそこ早い時間に帰宅するときはあたしの部屋に来る。酔い潰れてるときもある。粗野な仕草で何かをなぎ倒し、玄関で崩れ落ちる。
ときどき男は深夜、そうして大きな音をたてるけど、このアパートの住人達は何も言わない。言えないのかもしれない。おそらく日本語がまだうまくしゃべれない出稼ぎの外国人労働者。アパートから少し行ったところにある工場の。
外国人労働者を嫌がるアパートオーナーは多いのだと不動産会社の担当の人が言っていた。お世話になっている不動産会社の取締役は、祖父が現役であった頃の患者さんであり、それから親交がある。だからおまえがアパートオーナーだと両親から突然その責務を放り投げられても、あたしは鴨にはならなかった。正直、オーナーとして勉強であったりなんらかの努力しているか、といえば、なにもしていない。
工場が多くて外国人も多いのに、外国人労働者を受け入れてくれるアパートは少ない。だからこのアパートはすぐに満室になった。けれど、角部屋に住むあたしの、その隣の部屋だけは空けておいた。そうしておけ、と叔父さんに言われたから。
そしてそこに男が入室した。男はアパートのオーナーがあたしだとは知らない。そうしておけ、と叔父さんに言われたから。
小児科医の伯母さんはときどき、アパートに訪ねてくる。
伯母に膵臓がんのステージIIIであることを告げたのは父。半年前のこと。それ以降、伯母さんは臨床の場に立つことは少なくなった。
化学放射線療法や化学療法は拒んでいる。ステージIIIならば、切除可能境界や切除可能になるかもしれないと父は説得したが、伯母さんは微笑みながら拒絶した。父は叔父さんに、伯母さんを説得するよう求めたけれど、叔父さんもまた首を横に振るだけだった。「姉さんの強情っぱりを兄さんも知っているじゃないか」と。
伯母さんは一度結婚したことはあるけれど今は独身で、こどもはいない。
歯医者がお休みの日は男はあたしの部屋に入り浸り。だから今日も昨晩からずっといて、伯母さんの来訪予定も男に知らせていた。
「おまえの伯母さんには謝んなきゃな。おまえの『新治』になるって言ったのに、早々に負けた」
「どういうこと?」
「『新治』だったら、おまえに誘われても抱かなかったはずだから」
誘ったつもりなんてない。
と言ったらウソになるけど。それでも。
思わず眉が寄ってしまう。男が苦笑した。眉の間を指でつつかれ「おまえが可愛かったってことだよ」と。
チョロいあたしは、ニヤけきった顔を隠そうと唇をかむ。
「……『新治』って三島由紀夫の『潮騒』? そういうシーンがあるの?」
「そう。『潮騒』。そういうシーンっつーか――……読んでない?」
うつむいた顔をもちあげるように顎をつかまれる。オリーブ色の目とあたしの目がかち合い、男が首を傾げた。
「うん。だってあの小説って純愛物語なんでしょ? 三島がってことじゃなくて、文豪の描く純愛小説って苦手なの。偏見だけど」
「へえ。なんで?」
「なんだか気持ち悪いもの。変に理想化された女がいて、その妄想をただひたすら押し付けられている感じ」
「自慰行為見せられてるって?」
「そう。そんなかんじ」
身も蓋もない表現だけれど、確かにそうだ。
男は小さく唸ると首を振る。
「まぁ、そんなもんじゃねぇの。文豪だなんだってもてはやされようが、男なんてそんなもんだ。女だってこんな男いねぇよって男をヒーローにするだろ。男から見たら気色わりぃし、なんでこんなクソ野郎が女の理想なんだかさっぱりわかんねぇってことも多いし。それと一緒だろ」
「うん。それが悪いってわけじゃないの。ただあたしは読んでいて気持ち悪いってだけ」
「わからなくはねぇけど」
眉をひそめて渋面を作った男は、少し考えるように息を吸い、首の後ろに手をやった。指先でシルバーのアンカーチェーンとその先の留め具をもてあそぶ。
そして大きく息を吐きだすと、じっとこちらの目を覗き込んだ。
「じゃあ俺がおまえに理想を見たっつったら、気持ち悪いって言う?」
「ううん。嬉しい。でも怖い」
嬉しいに決まってる。当然だ。
だけど怖い。
「怖い?」
「『理想』の枠からはみ出たとき、あなたがあたしに失望するから。『理想』って言われて嬉しいのは一瞬。あとはあなたの『理想』でいるために、何をすべきで何をすべきでないのか、それしか考えられなくなりそう」
「…………可愛いこと言ってくれるじゃん」
胸が陶然と、とろけきってしまう、あの優しくて色っぽい、体中が火照るような、どろりと愛欲の沸き立つ甘い目。くしゃっとシワの寄った目じり。
頬に添えられるぶ厚い手のひら。その熱。かさつき。
くちびるにかかる湿った吐息。重ねあう柔らかな温もり。
鼻先がかすめて離れ、男は短くハッと息を吐いた。首をのけぞって天井を仰ぐ。
突き出た喉仏を、光がかすめる。襟ぐりに沿うアンカーチェーンに窓から差し込んだ光が反射した揺らぎ。
「でもま、おまえの伯母さんは俺のこと、新治ってガラじゃねぇのは、ハナからわかってたみてぇだしな」
「アポロンってあなたの身体のことを言ってただけじゃないの?」
「そんなら三島のヤツだっておんなじだ。三島はマッチョが好きだったらしいじゃねぇか。あいつの書く男はみんな頭空っぽのマッチョ」
「あなたの頭はぎっしり詰まってるっていうこと?」
「それはねぇな。俺はチャラいだけ」
ニヤっと笑って、不埒な手が胸元に伸びてきたので、それを払って立ち上がった。
「だめ。これから伯母さんがくるんだから」
「ケチ」
拗ねたような口ぶりに思わずほだされそうになったけれど、そんなことをしている場合じゃない。
伯母さんを歓迎するのに、この散らかりきった部屋をどうにかしなくては。
ぐるりと部屋を見回して、ため息が出た。
男が入りびたるようになって、ずいぶんと部屋が荒れ始めた。
男の衣類やら、それらをメンテナンスする様々な器材だったり、ヘアセット剤やら筋トレグッズやらが多すぎる。
女のあたしより、ずっと美意識が高い。ホストとはそんなものなのだろうか。
「いまさらだけど、もうちょっと整理しないとね……」
ひとりごちると、男は「ごめんって」とちっとも悪びれない口調で、床に散らばるジャケットを拾い上げた。
薄手のシルクジャケット。全体はチャコールグレーで、ライトグレーの細いストライプが広い間隔で入っている。
男のかっこよさを引き立てる洋服のひとつ。チャラくてホストっぽさを演出する洋服のひとつ。
あれは昨晩、男がこの部屋に入るなり脱いで、そのまま放っておかれたものだ。
煙草と酒と香水。夜の残り香。
男がジャケットを手に目の前を通り過ぎ、朝の今、場違いに漂った。
今日の手土産は伯母さんの手作りの葛まんじゅう。紅藤色に金箔を散らした風呂敷に包んで、伯母さんはやってきた。着物は今鶴羽色。伯母さんは薄紫色が好きなのだ。
伯母さんには煎茶を。男には紅茶を。テーブルに並べて男のとなりに腰掛けると、男はがばりと頭を下げた。
「すみません。姪御さんの新治になると宣言しましたが、」
「だから申しましたのよ。あなたはアポロンのような人ね、と」
伯母さんは男の独白を遮り、にっこりと笑った。それ以上は言葉にしなくても承知している、とばかりに。
新治ではなくアポロン。三島の『潮騒』を読んでいないあたしには、二人の交わした言葉の意味をなんとなくそういうことだろう、と想像するしかできない。
「あなたはまるでアポロンのようだわ。美しく芸術的才能にあふれる恋多き男神。ギリシャ神話を読んだことはある?」
「あまり。アポロンの名前くらいはわかりますが」
男が頭をかくと、伯母さんが口元に手を当てる。するりと着物の袖が滑り落ちる。「あらいけない」と伯母さんは袂をおさえた。
「そうなのね。ではアポロンが袖にされたお相手のひとり。有名なお話の子は知らないかしらね」
「ダフネですか」
伯母さんが目を丸くする。あたしもびっくりして横に座る男を見た。平然と紅茶を飲んでいた。
「……あらあら。これはまあ。ごめんなさいね。お若い方だから、あまり興味はないのかと思っていたのよ。だからすこし、意地悪をするつもりで聞いたの。可愛い姪っ子をあんまりに素早く陥落させるものだから」
陥落とは。思わず眉をひそめて伯母さんを見るけれど、伯母さんは少女のように瞳をキラキラさせて邪気なく微笑んでいる。
伯母さんは初めて顔を合わせたときから、男をアポロンのようだと言った。男の美しい容姿を揶揄しているのだと思っていた。
だけどアポロンとダフネ。ギリシャ神話のそれを想定していたのだと言うのなら。伯母さんの『アポロンのような人ね』が内包する棘は、鋭く。その先端には、ひそやかな毒。
男は気に留めた様子もなくマグカップをテーブルに置いた。いつものようにがちゃんと音を立てて置くのではなく、ゆっくり丁寧に。それでもコツンと小さく控えめな音はした。
「ローマのボルゲーゼ美術館に、母に連れて行かれたことがあるので」
「あらまあ。お母さまも芸術に秀でたお方なのかしら?」
「どうですかね。映画が好きな人でした。俺がガキの頃は、映画のためならなんでもやるし、どこにでも行くような人でしたが。今はさっぱりです」
「映画を作られてたの?」
「いえ。配給会社に」
映画は観ないと何度も言っていた男。
伯母さんがそれ以上追及することのないように、テーブルの下で足をのばし、伯母さんの膝をつま先でちょんとつつく。伯母さんはちらりとこちらを見て首を傾げた。
男もあたしに横目を寄越した。
「俺が大学卒業する前あたりで、辞めました。今の母は女衒みたいなことをやってます」
驚愕に息をのんだ。
男は畳みかけるように続ける。
「俺は、ホストをやってます。大学に入学してすぐです。最初は留学資金を貯めるためでした。母から離れたかったとか、反発心もありました。俺、私生児なんです。母曰く、父親はアメリカのロックバンドのギタリストで。会いに行くとか、そんなことは考えてなかったんですけど」
ぶ厚い上半身をぴんと伸ばし、両手を握って膝の上に。まっすぐ伯母さんを見る男。窓の外からはバイクの走行音。
思わず男の拳に手をのせた。男はぴくりとしたけれど、そのまま。
「…………母は、俺の客になりました。俺の顔が、年々父親に似てくるのが苦痛だったらしいんですけど。開き直って、俺に恋人役をやらせるようになって。俺は逃げられなくなりました」
「それは言い訳ね」
それまでの穏やかな微笑みをひっこめ、伯母さんはぴしゃりと言った。
「あなた、あたくしを懐柔したいの? それとも姪と引き離してほしいの? どちら?」
「伯母さん……っ!」
「あなたは黙ってちょうだい」
伯母さんのいつになく冷たい視線と、その温度のない言葉に。一気に頭が冷える。
バカで居場所のないあたしに、伯母さんと叔父さんは、いつだって手を差し伸べてくれた。浪人しない。受験はしない。高校卒業でいい、と逃げ出したあたしを受け止めてくれたのは、叔父さんだけじゃなく、伯母さんもまた「しょうがない子ね」と笑ってくれた。それなのに。
伯母さんはじろりと男を睨んだ。
「あなた、頭は悪くないでしょう。それなのにお母さまを理由に自己弁護するフリをしたのはなぜ?」
「逃げ出さなかったことは事実です」
「そうね。お母さまに同情しているのよね。それで? 本当は優しいのね、とでも言ってもらいたかったのかしら? 大変だったわね、と労わればいいのかしら。でもきっと、違うわよね?」
男は黙る。手の下で拳に強く力がこめられたのがわかった。
「結論の出ていないことを他人に明かすのは賢明ではないわ。姪はともかく、あたくしはカウンセラーではないのだし。あたくしに答えを委ねられても困るの」
「…………すみません」
「あなたのお名前。うかがうのは、もう少し先にするわね」
タクシーに乗り込む伯母さんを見送ったあと、セックスをした。昼間から抱き合うのは、珍しいことじゃない。
捨てないで。何度もそう言いかけて飲み込んだ。
「あたしはダフネみたいに逃げたりしないよ」
ダフネのアポロンで居続けて。月桂樹の冠は、いつまでもかぶっていてほしい。




