2 踊る猪豚亭
『踊る猪豚亭』はニドの街にある、酒場兼食事処である。その名が表す通りに猪や豚肉類の料理が絶品で、ここの料理は酒のつまみに、飯の友にと人気が高い。
無論私の舌にも非常に合うため、この街に用事がある際にはここに立ち寄ることが密かな楽しみとなっていた。
今回の遠出は成果がなかったどころか徒労に終わり、消耗品や旅費、その他諸々の経費がマイナスとなって丸々のしかかって来た。そのうえ体や装備の類は余すところなく砂で薄汚れており、体を動かすたびにあちらこちらでジャリジャリと不快な感触がする。
まぁ実際にあの暴風を喰らってその程度で済んだのは、不幸中の幸いであろう。巨岩や鎌鼬を伴う魔術というのもあるのだから。
何はともあれ、そんな陰鬱とした気分を旨い料理と酒の力で打破するべく、私は久々に『踊る猪豚亭』の扉をくぐった。
昼飯時を過ぎ、かと言って夜にはまだ程遠い時間帯。店内の人影はまばらだった。歴史を感じさせる使い込まれたカウンター席が十席。大人数用の大きくごついテーブル席が六席。少人数用のテーブル席が八席。私は軽く見渡すと、混んでいないのを改めて確認したあと小テーブルの椅子へと腰を下ろす。ふぅ、と一息ついてから軽く汗を拭い、店員を──
「いらっしゃいませー。ご注文はどうします?」
呼ぶ前に来た。うん、話が早くていいな。
年の頃は十五、六であろうか。店の奥からやってきた女給仕は若干吊り目がちな目を細めながら笑っていて、とても可愛らしい。癖毛なのか赤い髪は左右に軽く広がり、後ろは編み込んで垂らしていた。ただ束ねただけの私の髪とは大違いだ。よく使い込まれたエプロンには何度か穴が空いたのか、何箇所か豚のアップリケが縫い付けられていた。芸が細かい。
「ああ。しばらくぶりにこの店に来たんだが、赤土豚とクゥデ芋の塩バター焼きはまだやってるだろうか」
「はい、大丈夫ですよー。今時期のクゥデ芋は特に甘みが強いのでおすすめです」
そう言ってニッコリと笑った。
「それはよかった。じゃあそれで頼む。それと今はとても腹ペコでね、肉は多めにして貰えるかな」
「はい、わかりました。それと飲み物はどうしますー?」
とりあえずエールを注文し、更に追加料金で小皿に蜂蜜を頼んだ。私がこの料理を食べるときには、蜂蜜は欠かせないのだ。
赤毛の女給仕は笑顔で承り、厨房の方へと歩いていった。
人心地つき、今度は何か視線を感じる気がしてふと後ろを振り返る。するとカウンター席に座っていた熊のような大男がニカッと笑い、近づきながら話しかけてきた。
「【黄昏】の! 【黄昏】のじゃないか! 久しぶりだなぁオイ!!」
「ガーウィン! ガーウィン・ベクター! しばらく見ない間にまたでかくなったんじゃないか?」
「おうよ! 【天鱗虎】ほどじゃあないが、引退はしてもこちとらまだまだ現役よォ!!」
そう言って彼は豪快にガハハと笑った。お互いの胸を拳で軽く叩き、そのまま二人の腕を交差するように打ち付ける。お決まりの再会の挨拶を終え、ガーウィンは短く切りそろえた髭面で再びニカッと笑った。
彼は私の古い友人である。付き合いはかれこれ二十五年以上にもなるか。もっともここしばらくは顔を合わせることもなかったが。
人並外れた体格を持ち、体はみっちりとした分厚い筋肉の鎧に覆われている。異常なまでの膂力で馬鹿でかい戦鎚を振り回し敵を打ち砕くその姿から、冒険者からは【鎚滅鬼】と呼ばれていた。
とは言うものの、とうに引退し、第一線から身を引いている筈。にも関わらず現役時代よりも更に密度を増し強靭になった肉体は、今でも鍛錬を怠ってない証であろう。彼ももういい年だろうに。それに引退とは。
ともあれ久々の嬉しい再会である。是非もなくカウンターに置いてあった自らの酒と料理を持ち、こちらのテーブルへと映ってきた。
「せっかくの赤土豚焼きに蜂蜜なんぞを添えるなんてけったいなものを【黄昏】の以外にも注文する奴がおるのかと思えば、まさかの本人とはなぁ」
「ぬかせ。以前にも言ったろう。あの料理は『完成』しているが、これによって更に一段階上の領域へと引き上げられるのだ。少なくとも、私にとってはな」
「数年ぶりだというのに、変わりないようで何よりだ」
「違いない」
くつくつと私が笑う。そこへ赤毛の女給仕がエールを持ってきた。
「はい、まずはエールを先にお出ししますねー。って、ガーウィンおじさん。こっちの席に移ってるけど、この人と知り合いなの?」
「おうともよ、エルザ! こいつとは三年…いや、四年ぶりか? まさかこんなところで出会えるとはなぁ」
「こんなところで悪かったわね」
私は、そう言って笑う彼女のぶんもエールを頼んだ。もちろん支払いは私だ。仕事中だから本当は駄目なんだけどね、言いながら、今度はいたずらっぽく笑った。三人ともエールを片手に、軽く掲げる。
「再会に、そして新たな出会いに。乾杯」
木でできた器を打ち付け、エールを一気に流し込む。うまい。あまり冷えてはいないが、それでも火照った体に心地よく染み渡っていく。はぅ…と軽く吐息を漏らし追加の注文をすると、彼女は苦笑しながら新たなエールを持ってきてくれた。どうやら彼女もいつの間にか飲み干していたらしく、彼女の手にも二杯目が握られている。ちゃっかりしている。
話を聞くと、どうやらガーウィンは七年ほど前に拠点をこのニドの街に移していたそうだ。そして、赤毛の女給仕改めエルザは、元々この街に住んでいた妹の娘。つまりは姪である。なるほど。そうしてこの店で可愛い姪っ子の様子を見がてら、酒と食事を楽しむのが彼の楽しみらしい。
「それにしても、何だって今日はニドの街に来たんだ? これから仕事か?」
「もう終わったさ。この街というか、『虚』手前の荒野だな。だいぶこっちよりだが」
「おいおい。あんなところ一人で行くようなところじゃないだろう」
ガーウィンが眉をひそめる。
「あそこの獣は凶暴だし、何より群れる。『虚』よりはまだマシだとはいえ一筋縄じゃいかんだろう。それにあそこは厄介な魔物も住むと聞く。お前のことだから、どうせひとりで向かったんだろ。良く無事だったな」
「無事ではないさ。飛喰鮫の群れに追いかけられ、岩蚯蚓や砂岩の巨人を切り抜けたと思ったら、次々と獣や魔物が出るわ出るわ。しかもやっと目標に辿り着いたと思ったらロクに何もできないまま竜気入りの『風獄』で足止めされてね。まんまと逃げられた。魔結晶十九個が、文字通り塵と消えた」
そう言って肩をすくめる。それを見て二人はなんとも言えない表情を浮かべた。
「今となっては、あの荒れ地で出会った獣たちよりも我が家で待つ弟子のほうがよっぽど恐ろしい。無駄遣いに厳しいんだ、あいつ」
「そういや弟子をとったんだったか」
「成り行きでな」
「へぇー。お弟子さんがいるんですねー」
「ああ。『二つ杖』のヒヨッ子だが、まだまだ伸びしろはある。私の弟子とは思えん発想や確固たる目標がある。術理を学び、修め、新たな術理を生み出そうと努力もしている。常識もあり、計算なんかも得意だ。大したやつだよ」
自信過剰になっては困るし、何より面と向かって伝えるのは恥ずかしい。本人には直接言えないが、ここでは嘘偽りなく褒めておく。
「ガハハハ! 『五星杖』の位を与えられ、【黄昏】とも呼ばれるお前が、親馬鹿ならぬ弟子馬鹿か」
「よせ。公には厳格な師匠で通ってるんだ。それに、未だに私は『六芒杖』の尻尾すら見えない愚か者だ。そんなに大層なものじゃない」
(私はおそらく、真円には『至れ』はしないのだ。かつて見たあの頂きには、届きはしない)
理術。
魔術とも違うそれは、世界の法則すら容易く歪める。
(私は師匠に託されたことすら、こうしてまともに こなせやしない)
理術師は自らの想いを、願いを、純然たる欲望を磨き上げ、研ぎ澄まし、世界へと叩きつける。
(血反吐を吐き、汚泥と絶望にまみれてもなお、高みの影すら掴めやしない)
理には法則を。
願いには道標を。
流れは、途切れることなく。
想いも、果てることはない。
それは現実をどこまでも塗りつぶし、書き換え、侵食する。
(でも……)
それらを極め、かつて位階と同じく【真円】と呼ばれた者がいた。
(それでもなお……)
奇跡の使い手たる理術師の最高峰。
遥かな高みにある真理へと到達した人類のほんの一握り。
前人未踏の境地を極め、己の我儘で全てを塗りつぶすに至った、圧倒的理不尽。
五星杖を超え、六芒杖を束ねてもなお届かぬ、究極の『一』。
深淵にして深遠なる、唯一の『真円級理術師』
私の、師匠だ。