一話『だから僕は勉強ができない。』
「……」
なんだっけ。
大問1の問2に聞かれていること。
問題用紙を見直してようやく思い出す。ああ、最大値ね、二次関数の。
でも数秒後には意識の外だ。
「…………」
何の変哲もない喫茶店だ。
何の変哲もない喫茶店のはずなのに。
額に汗を掻いて、数日前に解けたはずの問題が全く進まなくて、表情もなんだか強張っている気がして。
僕は。
「…………………っ」
高校受験の時並みの緊張感に苛まれながら、数学の問題と睨めっこしている。
やっと日が落ちて来て、学校を出た時よりかは暗いと感じられる明るさになってくる。
この交差点を右に曲がったのは初めてで、僕の脳内地図に新しい道が書き加えられようとしている……のだけれど、やっぱり辺りは暗いから次の機会でいいや。
「……ここ、かな」
ライトで自分の場所を周りの人に示しながらチャリを転がしていると、ようやく目的地に着く。学校から10分、家から5分の場所にあるその喫茶店は、新しくできたばっかりなのにも関わらず、なんというか、想像と違って年季の入った外装をしていた。
これがアンティーク、というやつか。なるほど。
僕は納得して、喫茶店の脇の駐輪場に自転車を止める。扉同様に正面についた小窓からは、かなり人が入っていることが伺えた。
新装開店というのもあるのだろう。カップル客も多いようだ。
カップル客も多いようだ。……。
僕なんかが入っていいのだろうか。
いや、僕なんか、じゃない。僕一人で、だ。こんなに混んでいるのに、テーブル席を僕一人で埋めてしまってもいいのかどうか。それに目的が目的だから、長い間そのスペースを不当に占拠しかねない。もちろん、ふんぞり返ってその場に居座り続けるがさつさも勇気も、僕にはない。
よし、帰ろう。と、回れ右をしていると。
「いらっしゃいませー!」
扉が開く音がした後に、ほどほどに大きな声が耳に届いた。
僕は改めてそちらを振り返る。
「ご注文は何になさいますかー?」
「……いや、まだメニュー表貰ってないけど。というか、帰るつもりだったけど」
「幼馴染の約束、忘れちゃったんですかー?」
……は?
出し抜けに聞かれた意味不明な質問を不思議に思って、逆光で見えづらくなった店員さんの顔を改めて見ると。
「……え? 和菜?」
それは、ピカピカの制服に身を固めた、ここのオープニングスタッフ兼、僕の幼馴染だった。
「なんで帰ろうとしたのさ」
「いや……」
「いや、じゃないし」和菜は僕の言い訳を抑え込んだ。「今日が初めてのバイトだから、学校で勉強終わったら来てって言ったじゃん。なのに扉の前でモタモタモタモタしてるから、こっちから開けちゃったよ」
「そんなにモタついてない」
「じゃあ、何回?」
「……一回?」
「なのに扉の前でモタしてるから、こっちから開けちゃったよ」
モタしてるってなんだ。まあ、自分で蒔いた種だからいいけど。
ともかく。
僕は無事に扉前で確保されて、他の店員さんとお客さん諸々に奇妙なモノを見るような視線を投げかけられながら、二階にある、長方形の二人用のテーブルに通された。
個人経営で二階だからか、許容人数は大雑把に勘定して十数人とそこまでスペースは広くない。僕から見て向こうの壁にある柱時計が、カッチコッチと音を立てて時を刻んでいる。女性客が多いようだ。各々タピオカミルクティーなり、ウィンナーコーヒーなり、ブレンドなりをチビチビやりながら対面の友人と談笑に花を咲かせている。
「ここで勉強できそう?」
「まぁ……うん」僕は頷いた。「大丈夫だと思う」
正直騒がしい環境で勉強をすることは得意ではないけれど、イヤホンを耳に挿すなりすれば……というか。
「そっちこそ大丈夫なのか?」
「うん」和菜は頷いた。「今は沢山人が入ってるけど、ちょっと前にやって来た団体のお客さんがそろそろ話のネタが尽きていている頃合いだから、ずっとここに居ても迷惑にならないと思う」
「お……おぅ」
『そっちこそ、喫茶店の隅で勉強目的で入り浸る奴なんか放置させて大丈夫なのか?』の意味を込めて聞いたところ、大体の仔細を省いているのに、120%の解答がやって来た。
「そうか……じゃなくて」僕は首を振った。「なんで分かったんだよ」
「だって、幼馴染ですし」
「……そっか」
僕は全然分からないけれど。
なんて、意味のない言葉をぐっと飲みこんで、僕は曖昧な相槌を返した。
「じゃ、早く注文するもの選んでー。ま、別に最悪お冷だけでもいいけど」
「いいのかよ。いや、ダメだろ。ええと……じゃあ、この店で一番カフェインが入ってるコーヒーで」
「モンスターね」
「あんな禍々しい味のコーヒーがあるか」
「エスプレッソのダブルでいいー?」
「おう」
んじゃ、ちょっと待っててねー。と、喫茶店の店員さんにあるまじき口調で返しながら、対面の席を立った。
……あ。
「ええと、その」
「?」
「制服。似合ってるんじゃないかな」
言うと、一瞬虚を突かれたようにたじろぐ和菜。
それから、律義に頬をポッと朱に染める……でもなく、にぃー、と、口の端を緩やかに上げた。
「ふーん。気が利くじゃん」
「……」
まるで新しい演技を覚えた子犬を見るような目で僕をジッと見つめてから、階段を降りていく和菜。
やっぱり、僕は全然分からない。
僕より遥かに先を進んでいる、久しぶりに再会した幼馴染のことなんて。
まあいい。勉強しよう。
僕は一つかぶりを振って、鞄に入れてあった参考書累々を机に広げた。
よろしくお願いします。




