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蓮花が枯れる頃にキミを愛せる  作者: 時田とき子
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袖触り合うも他生の縁 捌

 咲は町に溢れる群像の間を歩きながらチラリと手元のメモを見る。こと細やかに書かれた地図には咲が目指すべき場所が記されていた。

 それは「一人でお使いもしたことがないお嬢ちゃんには必要でしょう」という嫌味とともに藻女(みくずめ)から渡されたものである。


「アンタに頼みたいのはこの場所に行くことだよ」

「行って、それからどうするんですか?」

「さあねえ」


 反物が並ぶ座敷の上に座り込み、彼女はそう言うとおかしそうにコロコロと笑った。人を小馬鹿にしたその態度に苛立ちを抱えていれば、藻女は僅かに小首を傾げて咲を見上げてくる。

 華奢な肩から滑り落ちる艶やかな黒髪や、己の美しさを理解した上で細められた瞳はどれ程この女を嫌いだと思っても、つい息を飲んでしまう清廉さがあった。そうしてつい見惚れていれば、彼女は唇の合間から椿のように赤い舌を覗かせる。


「アンタがただ行って何もなかったと帰ってくるか、それとも我が目を疑いながらも何かを成そうと行動に移すか。それはあたしにも分かりゃしないよ」

「仕事だって言う癖に適当なんですね」

「そりゃあ、あたしは回ってきた仕事を縁みたいな奴らに回すだけだからね。それが上手くいくかどうかはあたしにゃあ関係ないのよ」


 そいで、行くのかい、行かないのかい。

 赤い紅が引かれた唇を歪めて尋ねる藻女に、咲は手元の紙を握りしめる。

 何があるか分からない。だが恐ろしいからと買った喧嘩を捨てる程可愛げがあるわけでもない。


「行きます。せいぜい私の着物を用意して待ってなさい」


 と啖呵を切ったのが、最後まで心配する縁を振り切り藻女の店を出る寸前の話である。

 咲は手元の紙から視線をあげると辺りを見回した。店が並ぶ一角を抜け、町人が住まう裏長屋の通りにやってきた咲はここで間違いないかともう一度メモを確かめる。

 詳細な手描きの地図上では確かに目的地はここなのだがイマイチ自信が持てない。それは多くの町人が暮らす一角であるはずなのに、人の気配を感じられないことが理由かもしれなかった。

 今が正確に何時であるか判断は出来ないが、頭上高くのぼる太陽を見るに昼過ぎであることは間違いないだろう。というのにこの一帯に足を踏み入れてからというもの、得体の知れない悪寒が走り、さらには僅かばかり息が詰まる感覚があった。

 何かがおかしい、というのはすでに気づいている。だがその何かの正体が全く分からない。

 咲は喉を鳴らすとこのまま帰るかどうか悩む。藻女の指示ではこの場にさえ来ればいいということなのだ。それならばさっさと店に戻ってもいいのだし、何よりこれ以上ここにいてはいけないと脈打つ心臓が囁いていた。


「あっ……」


 咲は悲鳴をあげかけた口元をおさえ、飛び出さんばかりに目を開く。青白く血の気の失せた彼女が見つめるのは、長屋と長屋の間にある細い路地であった。

 暗闇に紛れて地面に男の足が転がっている。本来ならすぐにでも駆けつけてどうしたのかと尋ねるべきであるが、暗闇から聞こえる液体を啜る音や咀嚼音が咲の足をその場に縫いつけた。

 逃げろ、と本能が訴える。何かがおかしい。どう見てもあの男は手遅れだ。この場で自分に出来ることは何もない。

 だから一歩後ずさった。今回ばかりは冷静な自分も早く逃げろと叫んでいる。

 だが逃げなければという思いだけで下げた足は砂利を踏み、奇しくも自分の存在を主張した。そしてその囁かな音を聞きつけたかのように、ピタリと咀嚼音が止まってしまう。


「……食事時にどちらさまでしょうか」


 と言ってきた声を、果たしてどう表現すればいいのだろう。掠れた声は老人のようであり、その癖に全身へとまとわりつき、毛穴という毛穴から体の中に染み込む恐ろしさを含んでいた。

 その声を聞いた瞬間ぞわりと鳥肌がたち、奇妙な汗が首を伝っていく。体が震えることを我慢できずにガタガタと歯を打ち鳴らしていれば、暗闇からゆっくりと大きな影が現れた。

 出てきたのは一見中肉中背の老人であった。だがよく見ればその体中には短い体毛がびっしりと生えている。本来顔の横にあるべき耳はこめかみから丸い形で生え、ギョロりとした目に突き出した鼻、唇から飛び出した鉄の前歯はまさしくネズミの姿であった。

 人型の大きさがあり、さらに着物を着たその化けネズミは、こともあろうか人の言葉で咲に話しかけてくる。


「これはこれは。また奇抜な服装のお嬢さんですな」


 粘着質な声で語る化けネズミを見た瞬間、張りついた喉は悲鳴すらあげることができなくなる。それどころか恐怖で呼吸すらままならず、この場に立っているだけで精一杯だった。

 逃げろ、と本能が叫ぶ。冷静な自分さえ早く早くと急かしてくる。だというの恐怖で凍りついた足は一歩も動いてくれない。

 ああ、そんな時に思い出してしまうのが、何故あの男の言葉なのだろう。


 ──俺のことは信じなくていい。だけど何かあった時、俺は自分の命を捨ててもアンタを守る、絶対にだ。この言葉だけは信用しろ。


 冷たい手で咲の頭を撫で、そう言って覗き込んできた赤い瞳の男なら。本当に、何かあった時、咲が命の危険に晒されたら。

 いつか憧れたヒーローのように颯爽と駆けつけて自分のことを助けてくれる。どうしてだか根拠も理由もなくそう信じていた自分に、今になって気がついた。

 人に甘えるのが苦手で、縁が止めるのも聞かずに飛び出してきて、それもこれも全て自分のせいなのに。この瞬間でさえ蛟を待っている自分が心底嫌になった。

 気がつけば化けネズミは目の前に来ている。そうして鮮血が滴り落ちる大きな口を開け、鉄の歯を咲に向けてきた。思わず両目を固く瞑り、次の瞬間の痛みに備える。

 だが咲を襲ったのは頭を噛み砕かれる痛みではなかった。


「──悪ふざけもそこまでにしたらどうですか、藻女さん」


 誰かに背後から腕を引かれた咲は、震える彼女を守るように抱く硬い腕の中にいた。恐ろしさのせいで涙が混じった瞳を開き、声の主を探して顔を上げる。


「しぐ、れ、さん……?」


 咲の肩を引いていたのは、不愉快さを隠しもせずに顔を歪めた男であった。彼は咲ではなく真っ直ぐに化けネズミの方を睨んでいる。それこそ咲が向けられているわけではないのに頬を引きつらせてしまうような、地獄の悲鳴を煮詰めた怨嗟がこもった目であった。

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