袖触り合うも他生の縁 伍
蛟が入ったのは咲が寝かされていたあの簡素な部屋だ。いつの間にか布団は片付けられており、三人は思い思いの場所に座り込む。咲はどこに座るべきか悩んだが、自分の隣を叩きながら「咲」と呼ぶ蛟に促され彼の隣に腰をおろした。
狭かった部屋は成人男性三人と咲が入れば息苦しさすら感じる。それも見知らぬ男性に囲まれた見知らぬ場所となれば、緊張してしまうのも当然だろう。出来るだけ身を縮めていれば、初めに口を開いたのはこの集まりの主催とも呼べる男だった。
「だいたいの検討はついてると思うがね。俺はうちの神さんが惚れてるらしいこいつを守らなきゃならねえ。それにうちに置いておけば、咲に会うためにあいつも戻ってくるかもしれないしね」
「まあ妥当な判断でしょうね。そこから先は了承しかねますが」
「つれないこと言うじゃないよ。俺が二六時中こいつにべったり出来ないことは知ってんだろう」
「この境内から出さなければ問題ないでしょう。守るという意味に関してもその方が効率的です」
蛟と時雨の話を聞きながら、詳細は分からないまでも、自分のあずかり知らぬところで話が進んでいることだけは理解出来た。
守るだとかここに置いておかなければいけないだとか、蛟の言っていることはもっともなのであろう。咲をここに呼んだのは蛟の神社の神様であり、その神様を呼び戻すのに咲程効果的な餌もあるまい。とは言え当人を差し置いて勝手に処遇を決められることは納得いかなかった。蛟以外に頼る人がいないとはいえ、縁と時雨に相談する前に自分へ話を通すべきではないのか。
そんなことを考えて眉を顰めていれば、目の前に座っていた縁と目が合ってしまう。彼は咲の心中を察したのか、苦笑すると蛟に向かって「そういえばさ」と声をかけた。
「咲さんの着物はどうするつもりなの? どの道暫くはここで暮らすことになるんだし、こんなに目立つ格好じゃ問題があると思うんだけど」
目立つ格好、というのはチャイナ服のお前が言うかと思わなくもないが、縁の言う通りでもある。咲が着ているのは白いシャツにオレンジのプリーツスカートであり、普通に考えてこの時代に存在しない格好は彼ら以上に浮くはずだ。
縁の言葉につられるよう時雨と蛟にさえマジマジと服装を見つめられどこかいたたまれなさを感じる。思わず両腕を握りしめ、「あ、あんまり見ないでくださいよ」と憎まれ口を叩けば蛟はニヤリと口角をあげた。
「なんだ、アンタにも恥じらいって感情があったのかい」
「どういう意味よ」
「俺に抱かれて大人しくしてた奴の言葉には聞こえないねえってことだよ」
「次に変なことを言ったら暴力も辞さないわよ」
咲は冷たい目で拳を握るとケラケラ笑い続ける蛟をジト目で睨んだ。知り合ったばかりの他人にここまで殺意を抱くのは初めてだが、今のはどう考えても蛟が悪い。絶対にこいつから謝ってくるまで許さないからなと決めていれば、縁が困った顔で間に入ってきた。
「はいはい、二人が仲がいいのは分かったからそこまでにしてくれる? それより蛟君、適当に羽織を借りたいんだけどいいかな」
「ああ? 構わないけどどういうつもりだい」
「僕は咲さんと一緒に姐さんの店に行ってくるよ。さっきも言ったけどこのままだと目立つしね。その間に蛟君と時雨は思う存分喧嘩しときなさいな」
その言葉だけで蛟は縁が言いたいことを理解したのか。「ちょっと待ってな」と言い残すと部屋から出て行った。
彼が席を立ったのは時間にして数分であり、すぐに戻ってきた彼の手には鮮やかな濃紺色の羽織が握られている。それを咲に投げると、次に小さな巾着のようなものを取り出し縁に手渡した。
「小遣いだ、持って行け」
「いいよ、これくらい。蛟君より僕の方が稼いでるし、僕が咲さんに着物を買ってあげたいだけなんだから」
「うるせえ、男が一度出したものを引っ込められるわけがないだろう。咲もぼうっとしてないで早くそれを着な。縁がいたら大丈夫だとは思うが、くれぐれもこいつから離れるなよ」
眉をつり上げながら向けられた言葉に咲は唖然とする。
話の流れは分かる。この服装が目立つからと、縁の提案で彼と一緒に買い物に行くことになったのだ。それは分かるし正直大変ありがたい話だ。だが何度も言うが、咲は自分の進退を勝手に決められ、自分の意思と関係なく人の世話になることを良しとしない可愛げのない性格なのである。
「……ありがたいけどお断りするわ」
「ああ?」
「倒れている所を助けてもらったばかりか、出会ってまもない男性に着物を買ってもらう理由がないもの。貴方の事情もわかるけど、何とかして元の場所に帰れないか一人で探してみる」
──それにまだ貴方達が信用できる人だと決まったわけではないから。
その言葉は飲み込んだが、蛟には通じてしまったのだろう。彼は盛大に顔を歪めると大股で咲の前に向かってきた。
温度のない無表情で見下ろしてくる美人とは普通よりも危機迫るものがあり一瞬たじろいでしまったが、咲も負けじと彼を睨み返す。
「よく知りもしないし身寄りのない場所で生きていくなんて無謀だって言いたいんでしょ」
「何だ、よおく分かってるじゃないかい。そこまで分かってて嫌がる理由は何だってんだい」
「貴方が説明した神様がどうたらって言うのも全て嘘かもしれないでしょう。今の私には何が嘘で何が本当か確かめる方法がないもの。だからここにいようが出て行こうが、私の安全は大して変わらないのよ」
素直に考えていることを吐き出せば、彼は人を小馬鹿にするような笑みを浮かべた。その顔がムカついてまた口を開きかけるが、咲が言葉を吐き出すよりも早く蛟が屈み込む。
数十センチ先から覗き込んでくる赤色の瞳からは感情が読めなかった。彼が本当に怒っているのかも分からなくなり戸惑っていれば、スっと蛟の右腕が咲に向かってくる。
殴られる、とは思わなかった。この短時間で知った蛟はそんな人ではない。少なくともそう思えるくらいには知らず知らずのうちに信用していたのだ。
ああ、だからと言って。まさか慈しむような笑顔で頭を撫でられるとは思わないではないか。
「安心しな、咲」
優しい声が耳朶を撫で、咲は堪らずに硬直する。反論も何も出来ずにただ目を丸めて見あげれば、蛟は眩しそうに瞳を細めた。
「俺のことは信じなくていい。だけど何かあった時、俺は自分の命を捨ててもアンタを守る、絶対にだ。この言葉だけは信用しろ」
覚悟のこもったその声に上手く舌が回らなくなった。
絶対だとか、どうしてそこまで言えるのだ。咲はこの神社の神様の愛し子だとかで、自分がいることで神様が戻ってくるかもしれないからか。
だがそれだけで蛟には直接的な、どうしても咲を守らなければいけない理由などないはずなのに。
「私には貴方にそこまでしてもらう理由がないわ」
だからこそそれは咲の本音であった。戸惑いながら彼の瞳を覗き込めばほんの少し困ったような、悲しそうな顔に見つめ返される。
「理由なんぞたくさんあるよ。それこそ俺はその為だけに生かされてきたんだ」
どうしてそんなに泣きそうな顔をしているの。
どうしてガラスに触れるように私に触るの。
尋ねられない言葉は空気に溶け、結局何も言い返せないまま、蛟に促され立ち上がるしかなかった。