袖触り合うも他生の縁 参
「どうしてアンタがここに来たのか、って聞いたね」
蛟は住宅の縁側に腰掛けると、咲が右往左往しながらも用意した桶の水で足を洗う。つい先程までは透明だったそれを茶色く汚しながら、彼は隣に座る咲へと視線を投げた。
「咲はよ、この時代に来る前神社に寄らなかったかい? 立派な御神木がある神社だ」
「ええ、行ったわ。そうしたら不思議な声が聞こえてきて。御神木に触ったら急に意識が飛んだの」
「そいつはああいう木じゃなかったかい?」
「え?」
蛟が指差す方向を反射的に振り返る。そうしてゾッとした。彼が示す先には確かに白い注連縄が巻かれた大木があったのだ。
咲が知る御神木よりは小ぶりであるし、木の見分けなどつくわけがない。ただ漠然と、少年の声が聞こえた御神木はあの大木で間違いないと思った。
「た、多分あの木よ! え、どういうことなの!?」
「俺だって詳しく話せるわけじゃないがね。数日前にうちの神さんが夢枕に立ったんだ。三日後の朝に先の時代から女が一人来る。そいつは自分にとって大切な人だから良くするように、ってね」
「は、はあ!?」
「俺も半信半疑だったんだが、今朝庭に出てみたらいつの間にか、それも見慣れねえ格好した女が御神木の前に倒れてるじゃないか。ああ、こいつが神さんが言ってた奴なのかってすぐにわかったよ」
あらかた足を洗い終えたらしい蛟は手ぬぐいで水気を拭きながら「神さんが大切だと思うだなんて、アンタ何者なんだい?」と。鋭い切れ長の目を向けてきた。
「そんな、こと……私だって知りたいわよ……。確かに御神木の声は聞こえたけど、私が愛し子とかわけ分からないことばっかり言うし」
「ふうん、因みに願いを叶えてやるって言われなかったかい?」
「……言われたわ」
「じゃあ咲がこの時代に来た理由はとりあえず解決だね。神さんは何でか咲にゾッコン、おかげでアンタは願いを叶えてもらって万々歳ってか」
足を拭き終えた蛟は無造作に薄い手ぬぐいを咲へ投げてくる。慌てて受け取ったそれが湿っていることに生理的な拒絶反応が出そうになったが、それよりも蛟の言葉の方が大事であった。
「解決したって、私は何も納得してないわよ! それに私は過去の時代に行きたいなんて願ってない!」
「はあ、いいかい? 神さんってのは身勝手な存在なんだよ。人の子と価値観なんぞも違うし、アンタの願いが歪んだ形で叶えられたとしてもおかしくない」
歪んだ形、というのがこれなのだろうか。
ここからいなくなりたいと願ったからあの時代から消してくれた。代わりに過去の時代に飛ばされた。
それはどうしたって、純粋に願いを叶えてくれてありがとうございますと祈る気持ちになるものではなかった。
「御神木っていうのは神依木なんても言われてるんだが、神さんがこの地に降りる時の依代なんだ。だからこそ神社では御神木を神聖なものとして崇め、社殿のない所では御神体扱いもしている」
「……」
「この世界はね、神様達が住む常世と俺達が生きる現世の二種類に分かれてんだ。常世は神の住む場所でもあるが、同時に死者の国でもある。あちらから禍や厄災が入らないよう、常世と現世を繋ぐ道でもある御神木には結界として注連縄を巻く。そして神の力を借りたい時だけ注連縄を外すんだ。ただ、もしその御神木に触れたら」
「ふれ、たら?」
ゴクリ、と生唾を飲みこんだ。
蛟は人差し指を立て、咲の額を軽く押す。
「良ければ幸運を授けられるが、悪ければ魂を奪われてめでたく常世行きだ」
「それってつまり……」
「死ぬってことだね」
低い声で囁かれた言葉に縁起でもないと体を仰け反ぞらせる。神様だとか何だとか簡単に信用出来る話ではなかった。だが不思議なことが起きていることは何よりも自分が理解しているし、むしろ神様の仕業だと言われた方が納得出来る。
納得出来るが、死ぬという表現はあんまりだ。
神様がどんな存在かは知らないが、自分の首が絞首台の縄に括られている気分になる。それも相手はこんな望んでいない形で咲の願いを叶えてきた相手なのだぞ。これから御神木に触ったせいだといって祟りが起きるかもしれないと考えれば途端に血の気が引いてきた。
「その神様って蛟の神社の神様なのよね? お願いして私を元の時代に戻してもらうとか出来ないの!?」
「それは無理な話だね」
「無理って、何でよ」
「その神さんが今は不在なんだよ」
はっ、と掠れた声が出る。意味がわからないと眉をひそめれば彼は面倒くさそうに首の裏をかいた。
「実は昔に色々とあってね。アンタを唆したのはうちの神さんで間違いないと思うんだが、その神さんはどこぞに消えちまってこの神社にはいないんだよ」
「いない、って。でもここは神社で神様を祀っている場所なんでしょう? そんなことがあるわけ?」
「今は代わりの存在で何とか繋ぎ止めちゃいるが、うちの神さんは土地神だから俺もいなくなって困ってんだよ」
そんな無責任がことがあってたまるかと怒鳴りかけたが、申し訳なさそうに首をすくめる蛟を見て慌てて言葉を飲み込む。彼がこの神社の関係者だからと言って怒るのは筋違いであろう。悪いのは全てその神様であり、蛟も神様がいなくなって困っているようなのだから。
そう自分に言い聞かせてひとつ深呼吸をする。感情で思考を乱してもいいことなど何一つない。とにかく今は冷静でいることが必要だ。
何とか少しずつ冷静さを取り戻していけば、蛟は胡座をかいた足の上で肘をつき、「というかよ」と。真剣な目で咲を見つめながら口を開いた。
「アンタは本当に元の場所に戻りたいのかい?」
「当たり前でしょ。だって私が帰らなきゃっ、」
──妹やお父さんが困ってしまう。
そう紡ごうとした言葉は不自然に止まる。蛟は赤い瞳をこらして咲の顔を覗き込んできたが、時が止まったかのように動かなくなった彼女はどれだけ促されても身動きひとつ出来なかった。
自分がいなくなれば妹やお父さんが困ってしまう。
母親が死に、少しずつ家へ寄りつかなかった家族だったが、それでも咲は必死に彼らが帰る場所を守り続けた。
全ては妹の言葉があったからだ。自分が母親の代わりにならなければと思ったからだ。これがせめてもの罪滅ぼしだと思ったからだ。
だが結局、全ては自分のひとりよがりだったのかもしれない。
妹との口論からずっと考え続けていた思考がまた頭をめぐり始める。腹の底は冷え、鉛を沈められたかのように重くなった。ぎゅうっと痛む心臓を握りしめれば、白くなった視界が揺れ始める。
帰らなくてもいいのだ。むしろ自分など帰らない方が妹もお父さんも幸せになれるかもしれない。
「……私は、」
どうすればいいのだろう。どうしたらいいのだろう。
そう思ったことも音に出来ないまま、言葉は喉の奥に隠してしまう。代わりに手に持っていた手拭いを膝の上で強く握りしめた。