袖触り合うも他生の縁 壱
それは初夏に差し掛かった頃であった。
友岡 咲はいつもは使わない路線の電車を乗り継ぎ、見知らぬ土地をさまよっていた。特に行先も考えずにいたからか、随分と田舎の方にやって来てしまったらしく、無人の駅を出れば古く背の低い民家が押し並んでいた。何もかもが空を覆い隠す都会は息苦しく、誰も自分を知らない街に来てようやく息ができるような気がした。
ジリッと、徐々に夏の暑さをはらみ始めた日差しが咲の額を焼く。浮かんだ汗を拭う咲の頭上を、群れからはぐれでもしたのか、一羽のカラスが寂しげに飛んでいた。
この日は平日である。昼を目前にしたこの時間ではとっくに講義も始まっているだろう。だが大学へ行く気などどうしても起きなかった。全ては今朝妹と起きたとある諍いのせいだ。
数時間前に起きたばかりのその内容を思い出してはまた気が滅入ってくる。妹に言われたのはたった一言だ。だがその一言は、咲の全てを否定するには十分すぎるものだった。
──あの子が望むとおり、いっそ自分など消えてしまえばいいのに。そうすれば少なくとも妹は幸せになれるのではないか。
そんなことを考えながら歩き続けていれば、いつの間にか小さな神社の境内に入り込んでしまっていたらしい。辺りに人はおらず、鬱蒼とした木々に囲まれたそこは住宅街の中にあるとは思えぬ程静寂に包まれていた。
ふと視界に白い注連縄が巻かれた大木がうつる。御神木だろうか。ただの物言わぬ木であるはずなのに、目前にするだけで蹴落とされてしまうような威圧感があった。
御神木を見上げながら生唾を飲み込む。そして何かに呼ばれるよう、咲は足を引きずって近づいた。
ああ、その時だ。
『ようやく会えたね、ボクの愛し子』
突然幼い少年の声が聞こえてくる。驚いて辺りを見回すが当然誰もおらず、さらにそれは頭の中に直接語りかけてくるような気持ち悪さがあった。
霊感などとは無縁の人生であったし、神様など信じているわけではない。だが妙な予感があった。この声は目の前の御神木から聞こえてきているのではないか、と。
『そんなに怯えないで。ボクは君の敵じゃないから』
優しく語りかけてくる声に咲は一歩後ずさる。心臓はバクバクと脈打ち、暑さとは別の理由から汗が止まらなかった。
これは不味い。何かがおかしい。今すぐここから逃げなければ。
本能ではそう理解しているというのに、足はまるで地面に縫いつけられたかのように動かない。それでも何かに抵抗するよう、咲はきつい視線で御神木を睨んだ。
「……この声はその御神木から聞こえているの?」
『そうだよ、僕の依代はこの樹だからね。君がまた僕に会いに来てくれたから久しぶりに目が覚めたんだ』
「まさかドッキリとかじゃないわよね。不思議な装置を使って電波で話しかけてきているとか」
『現代ではそんなことができるの? 面白いね。人の子っていつでも神の真似をしたがるんだ』
少年の声は愉快そうに笑った。だがどこまで探っても熱を持たないその声にゾッとする。何よりもまるで自分は神だと語る口ぶりは、本当のことだと信じてしまうような得体の知れなさがあった。
傍から見れば御神木に向かって話しかける女など変質者以外の何者でもないだろうが、幸い境内に人影はいない。それどころか平日の昼前であるというのに、周囲からは車の音や子供達の笑い声さえ聞こえてこなかった。その異常さにようやく気づく。
「……貴方の目的は何? どうして私に話しかけてくるの?」
咲は声を震わせながらも必死に尋ねる。それはこのおかしな状況で、何か喋り続けていなければ自分を見失いそうだという焦りのせいでもあった。
そんな咲を知ってか知らずか、御神木は『心外だな』と笑う。
『君がボクに逢いに来たから幾百年ぶりに目覚めた、それだけだよ。むしろボクに逢いに来たのは君じゃないか』
「私は貴方になんか会いに来てない」
『逢いに来ているだろう。現にボクにかけられた封印が解けて目覚めた、それが何よりもの証拠だよ』
平行線をたどる会話に焦燥感ばかりが募っていく。だが少年は相変わらず楽しそうに、ほんの少しの愛しさを混ぜた、少年にはあるまじき甘い声で囁いた。
『愛し子、今度こそボクがキミを守ってあげる。幾百年も前の愛を真に叶えるために』
「何を言って、」
『さあ、君の願いはなに? ボクが君の願いを叶えてあげる』
蜂蜜のように粘着質で、生クリームのように甘い声は咲の脳を溶かしていく。麻薬にも似たそれは彼女の理性や警戒心すら溶かしきった。「ねが、い……?」と舌の上で転がしたその言葉の甘さは身震いする程だ。
願いなどいくらでもある。もし神様がいればと何度も願った。
そうしてもし、神様がいるならば。
時間を巻き戻して欲しい。幸せだったあの頃に戻りたい。数年前に自分が犯した罪を消し去りたい。
何よりも。
「ここからいなくなりたい」
気がつけば御神木に触れていた。手のひらにはゴツゴツとした冷たい木の温度を感じる。何でと思うより早く、意識が沼に引きずり込まれるように遠のいていく。体は重く、頭も朦朧としていた。視界が黒く覆われる。意識が完全なる暗闇にのまれる間際、脳内でクスリと笑う声が聞こえた。
『大切なボクの愛し子。君の願いはボクが叶えてあげる。だから君も、絶対にあの約束を忘れないでね』
それが友岡 咲がこの世界から消える間際に聞いた、最後の【音】だった。