袖触り合うも他生の縁 玖
どうしてここに彼が、と引っかかる。だがそれ以上に時雨が呼んだ名前が気になった。
「悪ふざけなんて失礼だね。ちょっと脅かしてやるだけで、元々食うつもりなぞなかったよ」
「それならさっさとその悪趣味な姿をやめてください」
「ふふ、人型でなかったら奇形だと? 何とも人らしい傲慢な考えじゃないか、なあ時雨」
わざとらしい程の丁寧な言葉をやめ、親しそうに時雨を呼ぶ化けネズミに理解が追いつかなくなった。つい呆然としていれば、化けネズミはコロコロと独特の笑い声をこぼす。
それは一瞬の光景であった。
目の前にいる存在が腰を反れば毛むくじゃらの体毛が短くなっていく。曲がっていた腰は細くしなやかに、体は柔らかい曲線を描き、さらには醜いネズミだった顔はひと目見るだけで息をのむ麗人へと変わっていった。
「ふう、やっぱりこの姿の方が落ち着くねえ」
一瞬で藻女へ変貌を遂げた化けネズミに咲は我が目を疑う。目の前で起きたことのはずなのに何が起きたかは一切理解出来ず、状況が読めないこともさらに咲を混乱させた。
これは一体どういうことなのか。
全てを説明して欲しいと時雨を見上げれば、彼は心底面倒臭そうに溜め息をついた。
「どこから説明がいる?」
「出来れば、最初から……」
未だに喉が震えながらも何とか言葉を紡ぐ。無意識のまま時雨にしがみつけば、彼は嫌そうにしつつも、乱暴な仕草で咲の頭に触れてきた。
「藻女さんは祓い師相手に妖退治の仕事を斡旋している妖だ。正体は平安の頃から生きる九尾の狐で、たまに人を脅かしているくらいで基本的に害はない」
「それって、妖なのに仲間を売ってるっていうことですか……?」
「言い方は悪いがそういうことかね。あたしは昔、とある人の子と交わした約束を守るために人の子の味方をしてるんだよ。人を化かすのは趣味みたいなもんさね」
そう口を挟んできた藻女を訝しむ目で見返す。時雨も害はないと言ったが、確かに彼女がネズミの姿で人を食べているところを見たのだ。
そうして自分の目で見たものを確かめるよう、倒れていた男性の方に恐る恐る視線を投げる。だがいつの間にか男性の姿は綺麗さっぱり消えていた。代わりに犬ぐらいの大きさの狐がちょこんと座っており、咲と目が合った瞬間、狐はビクッと体を震わせどこかへ走り去ってしまった。
まさかあの死体も藻女の仲間が化けていたのか。そう思って目を丸めていれば時雨が話の続きを口にする。
「縁さんから藻女さんが変なことを考えているようだから手伝いに来てくれと連絡があったんだ。自分は藻女さんの神使に足止めされて身動きが取れないともな。だから私が慌ててお前を連れ戻しに来た」
「でも、待ってください。何で藻女さんが私を騙そうとしたんですかっ」
ここまで来たのなら妖というものも信じよう。そう思ってしまうくらい咲の肌を刺した恐怖は深いものだった。
だがどうしても、蛟達の知り合いだという彼女がこんなことをした理由が分からないのだ。
今や化けネズミの面影を消した麗人を見つめれば、彼女はそんなことも分からないのかと言いたげに鼻を鳴らした。
「あたしはただアンタを試したかったんだよ」
「試す……?」
「今まで甘ったるい水の中で生きてきたような小娘が、いきなり蛟と暮らして上手くいくもんかい。せめて度量があればと思ったけど結果はこれだよ。生き残ろうとする気概もありやしない」
彼女は苛立たしそうに言うと、咲を庇うように腕の中へ隠す時雨を睨みつける。
「そいつはあの神社のガキに連れてこられたんだって? 言っておくけどあいつが関わってんなら元の場所に戻るのも、残りの人生を幸せに過ごすのも諦めな。唯一の救いは苦しまないうちに首をくくることだよ」
藻女の言葉に唇を噛み締める。どうしてこの女にそこまで言われなければいけないのかと思いもするが、それ以上に彼女の言うことは正しいと思ってしまったのだ。今だって時雨の腕の中でカタカタ震えることしか出来ない自分が誰よりも情けなかった。
彼女が何をどこまで知っているのか分からない。だがさっさと首をくくれという言葉だけが頭を渦巻いていた。
自分のためにも、妹のためにも。そして出会って間もない自分を気にかけてくれる蛟達のためにも。もしかすると本当に、今すぐ死んでしまうべきではないのか。
「素晴らしいご高説をありがとうございます」
皮肉めいたその声は時雨のものだった。彼の胸に顔を埋めていた咲はつられて見上げかけるが、それを止めるようにさらにきつく抱きしめられる。息苦しさすら感じる腕の中で、それでも何とか視線を上げた。
見上げた先の時雨は間違いなく怒っているのだと思う。怒りや、憎しみや、恨みを込めた目で。彼は視線だけで呪い殺しそうな目を持って藻女を射抜いていた。だが何となく、その怒りは咲のためだけのものではない気がした。
「おおむね貴方に賛同しますが、こいつが死ぬべきというのは了承しかねますね」
「何でだい。アンタだって自分の悲運に浸ってるような弱い奴は嫌いでしょう」
「ええ、視界にいれるのも不愉快な程嫌いです。ですが人は成長しない貴方達妖とは違うんですよ」
嫌味がこもったその言葉に藻女は片眉を動かす。だが時雨は言葉にだけ怒気を込め、表情は変えずさらに続けた。
「弱いことなんか普通なんですよ。怖がって、間違って、死にかけて。それでも先にある幸せを夢想して生きるんです。死ぬことが救いだなんて二度とほざかないでください」
「ほう、それじゃあなんだよ、アンタにも夢見る幸せがあるってのかい」
「ええ、妖がこの世からひとつ残らず消えてくれたら満面の笑みを浮かべてやりますよ」
吐き捨てるような時雨の声に藻女は何も言い返さなかった。それで終わりだと思ったのだろう。時雨は何も言わずに咲の腕を無理矢理引く。思わずよろよろと歩き出せば、彼は振り返ることなく「それではまた」と言葉だけを残して歩き出した。