8、『移動』
ザーザー、と雨が降り頻る。
俺のすぐ近くではこの基地を襲撃してきたウィークが牙を剥いて待ち構えているのが現状だ。
「まずはここから離れねぇと……」
イフリートは警告も降伏勧告も何も発していない。そうなると多分、降参したとしても抹殺されるのがオチだろう。
だからまず優先すべきはこの場から脱出することだ。
これに関してはさっき吹き飛ばされていた事が上手く働いた。
遮蔽物も何もない広場から建物の影へと……丁度イフリートの位置からは死角になるところに俺は飛ばされていた。
体中が痛むせいで動きにくいが、這いずるようにして一旦壁際まで移動する。
「あぁクソ、痛ってぇ……」
壁に身を預けて、少し体を休める。
とっととこの場を離れたいのはやまやまだが、体がまともに動いてくれないのだからどうしようもない。
幸い何故だかは知らないがイフリートは彫像のように不動で、動く気配が全くと言って良いほど無い。
不気味と言えば不気味だが、今ばかりは非常にありがたい。
――ふぅ……とりあえず、動けるようになるまでは待つしかねぇか……
問題はイフリートが動いていないとは言ってもそれが何時まで続くかは分からないって事だ。
場合によっては今この瞬間にも動き出すことだってあり得るかもしれない。
だから俺は一刻も早く体を回復させるべく、目を瞑って可能な限りリラックスをする。
「……っっ……うっ…………」
目を閉じた途端、雨音で聞き取りにくいものの、どこからともなく呻き声が聞こえてきた。
――……生き残りか?……
パチリと目を開けてゆっくりと視線を巡らす。左から右にゆっくりと首を巡らせてみる。
居た。俺の右方向、ダクトの裏から足が見えている。
だが助け起こしたくとも俺も全身が痛む身で……と思ったが、どうやら俺の体の痛みは割と一時的な物だったらしい、そこそこ痛みは引いていた。
いや、俺が痛みに慣れたのか?……まぁ良い、動けるなら理由は不要だ。
一応、上空をコッソリと窺ってみる。
よし、どうやらイフリートは水平方向に目を向けているようだ。これなら地べたで多少動いても見つからない筈だ。
俺は屈みながら壁際を移動する。
いや別に屈まなくても良いのだが、隠密という言葉の響きだろうか、どうにも立って動く考えが浮かばない。
無駄な思考が現れる中、ダクトまで移動する。
呻き声の主はまだハッキリと目を覚ましている訳ではないようだ。ダクトを挟んだ向こうから、うんうん唸る声が聞こえる。
ひとまず男――見えている足からして整備士――の前に行く。
「……っておやっさんかよ!?」
思わず声を出してしまい慌てて息を潜める。
バレていないだろうか……………………大……丈夫そうだな………
一息ついて滲み出てきた冷や汗を拭う。
「にしてもなんでおやっさんが…………あぁ、そういや俺の隣に居たな……」
突然の事態ですっかり頭から抜け落ちていたが、爆風を食らう前は確かに俺はおやっさんと喋っていた。
「おい、おやっさん。大丈夫か?」
声を掛けておやっさんの体を揺する。
「……うぐっ…………あ、あぁお前か…………一体……何が…………起こりやがった……?」
割とすぐに目を覚まし、体を起こしたおやっさんだったが何故か頭痛を堪えるような動きをしている。
ふとダクトを見ると、そこには丸い凹みが深々とあった。
――頭打ったのか……だとしたら不味いな。脳震盪ぐらいは起こしてるかも……
けれど、もし仮にそうだとしても今はどうしようもない。
脳震盪の場合は安静第一、本来なら動かさないべきなのだが……さっきも言ったようにイフリートがいつ動き出すかは不明な現状、とっととここを離れなければ危険だ。
「話は後でする。立てるか、おやっさん?」
おやっさんは壁に手をつきながら何とか立ち上がった。
けれども、支え無しではよろけてしまうようだ。
「……わりぃ。肩貸してくれ……」
なんだか随分と弱々しいおやっさんを脇から支え、壁伝いに移動を始める。
――さて、どこへ避難すべきか…………
この基地は広場を中央にして周りに施設が立ち並ぶ形をしている。
俺達が今居るのは第二兵舎だ。広場の真南、南北に長い五階建ての建物が五棟並んでいる内、西から二番目の場所だ。そしてイフリートは第三棟の屋上に陣取って目を光らせてる。
この状況を生き延びるためには北側へ移動したい。
あそこには司令室があったから異常を察知した面々はそこに集まるはずだ。
もし居なくとも無線機はあるはずだから、それで救援を呼べば良い。
よし、まず目的地は決まった。なら次は移動ルートだ。
これには三通りある。
広場を通過する中央突破、西回りのハンガーを通るルート、東回りの倉庫群を通るルートだ。
まぁ一個目は論外として残りは二つ、少し悩んだが俺は東回りを選ぶことにした。理由は主に二つ。
一個目、ハンガーにはウィークが格納されている訳で、イフリートに目をつけられる可能性が高いということ。不意にバッタリ会ったりでもした時には即殺されるだろう。
二個目、北東方面には医療棟があること。もしそこが無事だったらすぐにおやっさんに治療を受けさせられるからだ。
目的地を決め、ルートを決め、俺はおやっさんに肩を貸しながら歩き始めた。
まずは第一棟と第二棟の間を基地外周へ行く向きに進む。目指すは各兵舎の中央にある、建物の通り抜けが出来る扉だ。
何故かって? イフリートは第三棟に居るから、東に向かいたければどうしても奴を横切る必要がある。つまり第二と第三棟、第三と第四棟の隙間、すなわちイフリートの視線が通る場所を潜り抜けなければならない訳だ。
だったら少しでも遠い外周沿いに進めば良いだろ、って話なんだが俺はその上であえて兵舎を通り抜ける事にした。それはウィークに搭載されるレーダーの特徴を考えての事だ。
ウィークのレーダーは基本的に胴体部分に装備されていて全方位を感知できるが、ウィークの構造上、脚部パーツが邪魔をして下方向だけは猛烈に鈍くなっている。
要は、灯台もと暗し。一番バレにくいのはウィークの足元であり、俺はそれに賭けたのだ。
ようやく中央扉についた。
音を立てないようにコッソリとドアを開閉して建物中へ入る。
当然の事ながら人一人とて居ない。さっきまで総出で作業していたから当然なのだが、不気味な光景だった。
外で雨粒の立てる音が一層内部の静けさを掻き立てる。
それはまるで動く者が全く居なくなってしまう未来を示しているかのようだった。
「…………やめろやめろ。しっかりしろ、俺」
心に現れた不吉な予感を振り払い、俺は自分に言い聞かせる。
通路を横切り向かいの扉に手を掛ける。ガラス越しに見えるのが第三棟の中央扉だ。ここから先は二連続で運試しになる。
勝っても首の皮一枚、負ければ即お陀仏。
大きく深呼吸して心臓を落ち着かせ…………俺は扉をゆっくり押し開けた。