36.執着の果て
ここは、市内のいずれかに存在する、ある寺の一角であった。
空は燃えるような橙から藍へと変わる時刻であり、人気はない。風すら吹かぬその場所に、白雪はとある確信をもって佇んでいた。
「……ここにおるのだろう、月梅の君」
呼ぶ声に応えるように、境内の影が揺れた。いくらかのひずみを経て姿を見せたのは、名を呼ばれた月梅だ。
彼はは、白雪を見て口角を上げてから一歩を進んでくる。
「やっぱり来てくれたんだね、白雪。……なんだかもう、これだけでいいかなって思えてきちゃったよ」
「ここにはもう、何も残ってはおらぬはずだ。それでも、まだこの地に執着するのか」
「執着? ……そうかもしれないね。おれは……あの頃の『私』は、この寺で息を引き取った。死ぬことは怖くはなかったけど、あなたを残していくことだけが心残りだったんだからね」
「……そうであったな」
この寺は、再建されたものである。多くの歴史が流れているために過去に何度か火災の被害に遇い、そういった経緯の元でだ。
『どこかの若君』であった月梅は、この地で眠りについた。それを彼が憶えていたとは、少々驚きだと白雪は思った。
――月梅の姿は、かつてよりも薄く感じる。
白雪のために、様々な無茶をしてきたのだろう。己の持ち合わせる力すら消耗しきり、心だけが残ったようなその様は、どこか痛ましかった。
だがそれでも白雪は、ひとつも目を伏せなかった。
「そなたの想いは、もはや愛ではない。求めていたのは妾ではなく、自らの欠けた心を埋めるための幻影だったのだ」
「……そう言われたら、きっとそうなんだろうね。でも、消えてくれなかったんだ。白雪のぬくもりも、声も――全部、ずっとここにいたんだよ」
「…………」
微笑む月梅の周囲で、影がざわつく。
その歪みは、彼の心の底にある感情が滲み出したもの。制御できぬ瘴気が形を成し、周囲の空気をひどく濁らせていた。
「……やめよ、自滅するぞ」
静かに言い放ち、白雪は扇を構えた。
霊気が冷たい氷風となって、流れ始める。
「妾は、そなたを憎んではおらぬ。あの頃の気持ちも、確かに残っている。ただ、もう……終わらせねばならぬだけだ」
「……やっぱり、あなたのそういうところが……好きだったな」
月梅は、そのままゆっくりと白雪へと歩を進める。影が集まり、彼の身体を蝕み始めた。
「最後に……君の手で、終わらせてくれるかい?」
白雪はこくりと頷き、彼へと扇を向けた。舞を興じるかのようにしてそこでパラリと衵扇を広げ、目を閉じて一閃を舞う。
――氷の風が舞い、月梅の身体を覆った。
あっという間に冷えていく体に、月梅が自嘲する。
「……愛しています、白雪」
「妾もだ、月梅の君。いつかまた、別の形で夫婦となろうぞ」
「はい……」
月梅の身体が崩れていく。それを見ながら、白雪は涙を流していた。その雫は頬を伝ったあと雪となり、地へと静かに落ちていく。
この手で終わらせると決めていた事であったが、だがそれでも、悲しくはないと言えば噓になるのだ。
「……白雪」
「っ!」
聞きなれた声がした。
振り返ればそこには、朔羅を伴った浅葱が立っている。
「……終わったんだね」
「はい。……ようやく、でございます。妾自身も、迷いがなくなったようにも思えまする」
「そう……でも、少しだけ寂しいね」
「そうでございまするな……寂しく、思います」
白雪の言葉は、微かに震えていた。表情は手元の扇で隠されてしまっていたが、溢れてくる感情には逆らえなかったのだろう。
浅葱は彼女を心配して手を差し出そうとしたが、それを止めたのは朔羅だ。
「……一人にしてあげよう」
「うん……」
朔羅は浅葱の肩を抱き、その場を離れていった。家に戻ったというわけではなく、少しだけ離れて白雪の気持ちが落ち着くのを待つつもりらしい。
主としての姿勢に、白雪は感謝するとともに、少しだけ彼らに甘えた。
忘れかけていたかつての慕情が、溢れ出てくる。
それを悲しみだけで終わらせなかった今の自分と、主の存在を改めて誇らしく思うのだった。
◆
「――あちらでは、一気に色々なことが起こったようだな」
「ですが、空間転移を行う者の気配が消えたことは確認できました。おそらく、これ以上の被害は出ないものかと」
「そうか……」
王帝・賽貴の屋敷の一室である。
彼の唯一の配下である鴉と、何故か実兄である諷貴がそろって姿を見せていた。
「それで、兄上は私をからかいに来たのですか」
「……俺がそんなに暇人に見えるか、賽貴よ。せっかくお前の『浅葱』を連れてきてやったのに」
「!?」
諷貴がそう言うと、立てかけてある几帳の向こうから、姿を見せた影があった。
――紛れもない、賀茂浅葱である。
「……、浅葱、さま……」
「はい、……私、です」
魂だけではない、何かの力を借りて見せている姿でもない。あの頃と変わらぬ着物に身を包んだ――浅葱自身だ。
褐返色の長い髪と、碧玉の瞳を見るのはいつぶりだろう。
「兄上、どういうことですか」
「土御門の浅葱が頑張った証拠……とでも言えばいいのか。空から一部始終を見てはいたが、俺にも原理はわからん。ただ、浅葱を諦めなかった感情ってヤツが、こうして成就したんだろうさ」
「……、……」
さすがの賽貴も、ひどく動揺している。
様々な背景を知っている鴉は、空気を読んでいつの間にかその場から姿を消していた。
そうして諷貴も、立ち止まったままの浅葱の背を押してから姿を消す。
「……これからは、あなたの傍に、いられるみたいです」
「浅葱さま、お身体への負担は……」
「そちらも、平気みたい。……よく、憶えていないんだけど……あの子が、そうしたらいいよって……」
浅葱自身も、どうしてこの場にいられるのかが不思議でならないのだろう。
転生がかなわぬ身となってしまってから、このまま永遠に生と死の狭間から抜け出せず、いずれは意識さえも朽ちてしまうと思っていた。
だがそれでも、こうして賽貴の目の前にいる。
「……触れても?」
「うん……賽貴」
賽貴はそう問いかけながら、浅葱を腕へと招いた。
確かなぬくもりをしっかりと確かめて、強く抱きしめる。
「……っ、浅葱さま……!」
「賽貴……待たせて、ごめんね……これからはずっと、傍にいるから……っ」
二人はどちらからともなく、目に涙を浮かべていた。
互いに強く抱きしめ合い、言葉を紡ぐ。
この先もずっと一人きりで過ごすかと思われていた王帝の、唯一望んでいた存在が確かに戻ってきたのだ。
賽貴と賀茂浅葱は、今静かに二人だけの時間を過ごすために、歩み始めた。




