34.再びの邂逅
そこは、境界にほど近い結界の内側。
白雪に伴われて踏み入ったその場は、霧と光の織り成す静謐な空間だった。現実と非現実のはざまで、音は薄く重力さえ希薄に思えた。ひたすらの闇が広がると聞いていたのだが、これは賀茂浅葱が干渉しているせいなのだろうか。
「ここが……門の、すぐ手前……」
浅葱の声も、どこかくぐもって響く。
朔羅が後ろに控える中、白雪が静かに頷いた。
「かの魂は、ここに留まっております。現世へ戻りたいと強く願ってしまったのか……。契約の瞬間に、私に触れてまいりました」
「うん……」
白雪の言葉を聞きながら、浅葱はどう呼びかけるべきかと言葉を探していると――霧の中から、うっすらと人の輪郭が浮かび上がった。
以前に見た、賀茂浅葱の姿と変わりない。
「……!」
それは、確かに『彼』であった。
ただ、姿は朧で声も音にならず、表情の輪郭も定かでない。以前に見たときよりも、記憶の断片すら漂っておらず、どこか自我がぼやけているようだった。
「――賀茂……浅葱、さん……!」
「…………」
名を呼ぶと、かすかにその人影が揺れた。まるで返事をするように、片手を伸ばしてくる。
しかしそのとき。
空間の端に、紫黒い稲光のような歪みが奔った。霧が裂け、異質な空気が吹き込む。
「っ、何……?」
突然、陣が崩れかける。白雪がすぐに手を翳して結界を補強するが、遅かった。空間の端から何者かが足を踏み入れていた。
――蘆屋会だ。
老齢な黒装束の集団の中に、あの月梅がいる。そしてその中央には、異様に細工された柱のような祭壇が据えられていた。彼らは月梅の特殊能力である空間転移によって、ここに現れたらしい。
「……ふぅ、まさかこんなわかりやすい場所で逢瀬を果たすなんてね。君とその式神たちは、警戒心が無さすぎじゃない?」
月梅が虚ろに笑いながら、浅葱を指さす。
彼自身の目的は浅葱ではないが、今は蘆屋の者としての役目を優先させているようだ。
「おのれ、月梅……っ」
「ふふ……白雪、いい顔してるね。もう少し待ってて」
「っ、まずい……!」
月梅は歪んだ笑顔を見せつつ、片手を差し出しパチンと指を鳴らした。
その瞬間、浅葱の足元から光が噴き上がる。朔羅がいち早く反応して間に入るが、その光は浅葱本人から出ていた。
「え……なに、これ……!?」
「やはり……お前が『器』だったか。『贄巫女』を逃してからというもの……その足元に隠されておったとは」
「……っ」
蘆屋会の一人が、静かに囁いた。
贄巫女という言葉には、浅葱自身が覚えがある。
(伯母さんが確か……贄の巫女だったって、匠兄さんが言ってた……!)
伯母の変わりが自分であったのか、それともそれすら蘆屋の狙いであったのか――今では確かめようもない。
だが、今の状況から言っても、仕向けられていたのだと思ったほうが頭の整理がつく。
「古の魂をこの世に留め、意志の名のもとに『統合』する。あの『賀茂浅葱』を引き出し、蘆屋会の名において屠る。それが、この儀式の目的だ」
「……狙いは、そこだったのか。浅葱さんを解放しろ! お前たちごときに軽んじられる存在じゃないんだ!」
「いまさら出来ん相談だ、白狐よ」
蘆屋の老齢がニヤリと笑う。式神という立場――それも、元妖魔である朔羅たちには、蘆屋の呪術は分が悪すぎる。
白雪が即座に儀式台へと霊力を叩きつけるが、蘆屋の結界がそれを防いだ。その様子に月梅が唇を歪ませ、浅葱の苦悶にほくそ笑む。
『あ、アァ……っ』
「……くっ、……」
「彼の魂と現代の器が混じる……もうひと押しだ――」
くぐもった声がそう言った。
朔羅も白雪も手が出せない状況で、誰もが一気に窮地に陥ったと感じる。
――その、直後。
「――やめてください!」
「!」
強い声が、場を裂いた。結界の外から踏み込んできたのは、紅子だった。
彼女の後ろには、琳と小鳥の姿の藍がいる。
「……紅子ちゃん?」
彼女がこの場にいられるという事は、おそらく手引きは静柯がしたのだろう。
彼の姿こそここにはないが、紅子にまとわせている彼のオーラがビリビリとこの場に広がっていく。朔羅でさえ予想外であったこの展開だが、今は仔細を問うには場が悪すぎる。
「……あなたたちが、していることは……っ、ただの傲慢です! 自分たちの私利私欲のためだけに、かの『賀茂浅葱』をこんな形で冒涜するなんて、許されることではありません。あなたたちは、己に大きな犠牲が出ることを熟知しているのですか?」
紅子は最初こそは言葉に詰まっていたものの、その後はピシャリと彼らに言葉を投げかけていた。
怖いのは当然であろう。だが、事情を深く知ったからこそ――彼女は自分が思ったことを彼らに告げたのだ。
(白雪、隙をついて境界を割いて)
(わかっておる)
朔羅と白雪が、彼らにし変わらない言葉のやり取りをしていた。
蘆屋にとっても紅子の介入は予想外であっただろう。若干だが、男たちの中に焦りを見せている者たちもいる。
「賀茂浅葱は、私たちの家族そのものです。私の兄、幸徳井静柯は過去の記憶を持っています。……彼が表立ってここに立とうとしないのは、感情任せに行動したくないからです。賀茂浅葱も、土御門くんがその名を継いで、信じた想いで引いた縁。それは、他の誰かが踏みにじっていいものじゃない!」
「紅子ちゃん……」
彼女の言葉に、蘆屋の者以外の者たちが、胸を突かれた。朔羅も白雪も、そうして紅子の後ろに控えている琳と藍にも、大きく影響を与えただろう。
その言葉に、霧の中で揺らいでいた魂が、ふっと光を帯び始めた。
「……彼が、応えてる。浅葱さん、チャンスは今しかない!」
「っ、……うん、やって、みる……!」
浅葱の体から浮かび上がった光は、苦しみを伴いながらも、じわじわとそれが緩和してきている。
立っているのもやっとという状況であったが、彼は歯を食いしばり、賀茂浅葱がいる方向へと再び目を向けた。
「だい、じょうぶ……! あなたのその『力』――無理に引き戻される前に、僕に預けてくださいっ!」
『……、あなた、は……』
「そうすることで、きっと……あなたは、賽貴と一緒にいられるはずです!」
『……っ!』
――僕は、僕で在りたい。
――私は、私で在りたい。
その声は、どちらの浅葱からも同じように漏れていた。
自身で在りたいと強く願いながらも、それは難しいことなのだと――少なくとも、賀茂浅葱は悟ったのだろう。
賽貴と一緒に――その響きが、一番の決め手だったのかもしれない。
「……解放しろ! 賀茂浅葱は、僕の『魂』だ!」
「くぅっ、抑えきれん……!」
呪術結界が軋みを上げた。
浅葱の強い言葉と霊力が器を通して流れ込み、蘆屋の呪法陣の要となっていた柱がひび割れていく。
「な……陣が崩れ始めている……!?」
「ありえん、まだ儀式は――」
光が柱の芯にまで到達したとき、それは悲鳴のような音を立てて爆ぜた。破裂音と共に術者たちは弾かれ、霧の空間がぐらりと揺れる。
「我らの結界が……破られた、だと……!?」
老齢の一人が、震えながらそんな言葉を吐いた。
誰もがこの儀式が上手くいくと信じていたのだろう。失敗など、あり得ないと思い込んでもいたようだ。
混乱の中、月梅だけが奥歯を噛みしめながら、ただ一人その崩壊を見届けていた。
「はぁ……全く、本当に使えないな……ッ、なんのためにおれがこうしたのか、わからないじゃないか!」
「……待て、月梅……!」
月梅は唇を噛み、「まだ終わりじゃない」と小さく呟いてから、霧越しに白雪を一瞥して虚空に飛び去った。
白雪がそれを追おうとしたが、優先すべきは己の主だ。
「白雪、いける!?」
「そなたは主殿をしっかり支えていよ!」
パシン、と白雪の衵扇が鳴った。
空間を切り裂くそれは、朔羅と浅葱――そしてもう一人の浅葱を押しやり、現実へと戻っていく。
「……おぬしたちは、良いのだな」
「はい、私は兄の導きがありますので」
「すまぬな、後でまた落ち合おう」
「――はい」
白雪がそう言い残したのは、紅子と双子たちへだった。
そうして彼らは、門の空間から抜け出し、窮地を脱した。




